江戸時代、黒船来航という歴史的事件は日本のみならず世界に大きな衝撃を与えました。当時、日本に足を踏み入れたアメリカのペリー提督も、その目に映る日本の生活や文化に驚かされたことは有名です。
まずはペリー提督の生い立ちから。ペリーは1794年にアメリカのニューポートで生まれ、父は船長、兄たちも海軍の軍人という海の家系に育ちました。わずか15歳で海軍に入隊した彼は、その後数々の任務をこなし、地中海での海賊退治や蒸気船の導入に尽力し「蒸気海軍の父」としても名を残します。1846年、彼はアメリカ東インド艦隊の司令官に任命され、日本を開国させるという使命を与えられました。
1853年7月、ついにペリー率いる黒船が浦賀に到着。その圧倒的な存在感と共に、当時の日本人に大きな恐怖を与えました。しかし、逆にペリーもまた、彼が目にした日本の生活様式に衝撃を受けたのです。
ペリーがまず感銘を受けたのは、日本人の驚異的な技術力でした。粗末な道具しか使っていないにもかかわらず、日本人は木材や竹を用いた加工技術において他国に勝るほどの精度を誇っていたのです。特に漆塗りに至っては、彼の生涯で見た中で最も完成度が高いと絶賛しています。
さらに、ペリーが感心したのは日本人の好奇心でした。彼らは新しい技術を恐れるどころか、強い興味を示し、しつこいほど質問をしてきたといいます。アメリカの長距離砲の構造や船の部品一つひとつまで詳細に観察し、自分たちのものにしようとする姿勢に、ペリーは驚きを隠せませんでした。特に、ある日本人の画家が、アメリカの船の機械を細部まで正確に描いた絵を見せた際、アメリカの技術者たちでさえその精密さに感嘆したという逸話も残っています。
ペリーがさらに驚いたのは、日本の高い教育水準でした。特に、当時の日本人の識字率は、世界でも非常に高かったのです。イギリスやフランスでは、識字率が数パーセントからせいぜい20%程度だったのに対し、江戸時代の日本では庶民の識字率が約70%から80%に達していたとされています。
日本各地には「寺子屋」と呼ばれる私塾があり、ここで庶民は読み書きや算術を学んでいました。江戸だけでも約1,500軒、全国では5,000軒以上の寺子屋が存在していたと言われています。また、街中には貸本屋もあり、庶民が集まって読書を楽しんでいたのです。このような背景から、日本の教育水準は非常に高く、庶民でも商売や日常生活に必要な知識を得ていたため、ペリーはその点にも強い印象を受けました。
ペリーの目には、日本の女性の社会的地位が高く映ったことも印象的でした。彼の記録によると、当時の中国やトルコでは女性が奴隷のような扱いを受けていた一方で、日本では女性が家庭や社会の中で重要な役割を果たしていたとされています。
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=2LvP6mkAVt8,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]