現代の旅行は飛行機や新幹線に乗れば、短時間で遠方へ行ける手軽さがあります。しかし、江戸時代の旅行は徒歩が基本でした。例えば、江戸から京都までの東海道は約492キロメートル、当時の人々はこれを歩いて約二週間かけて旅していました。そんな長い時間と労力をかけてまで、人々がどうして旅をしたのか?
江戸時代初期、1604年に徳川幕府は交通の要所となる五つの街道を整備し始めました。これが有名な「五街道」です。江戸の日本橋を起点に、中山道や東海道などが広がり、日本全国を結びました。しかし、これらの街道は当初、庶民が旅行するためではなく、幕府の役人や大名が使うためのものでした。宿場も整備されましたが、庶民にとっては贅沢な存在だったのです。
時が経つにつれ、庶民の間でも旅の人気が高まり、街道は次第に一般の人々が利用する社会インフラとなっていきます。各地の名産品や風景を楽しむ「観光」という概念が生まれ、人々は遠方への旅行を夢見るようになりました。中でも伊勢神宮への参拝は、江戸時代を通じて多くの人々が目指した最大の目的地となります。
徒歩での旅は当然、体力的に過酷です。旅人は少しでも荷物を軽くするため、最低限の持ち物だけを携えました。当時、一般的な旅の装備は「旅氷(たびごおり)」と呼ばれる二つの箱を紐で結び、前後に担ぐスタイル。中には、筆記用具や夜道を照らすための提灯、身だしなみを整えるための櫛などが入っていました。お金は重く持ち運ぶのが難しいため、宿場で両替をしたり、貨幣を軽くする工夫がなされていました。
旅先では宿が不可欠ですが、そのグレードも様々です。大名が泊まるような「本陣」は豪華絢爛で、庶民が泊まることはほぼ不可能でした。庶民向けの宿は「脇本陣」や「旅籠(はたご)」が主流でしたが、その中でも最も安いのが「木賃宿(きちんやど)」でした。この木賃宿は食事も自炊、プライバシーもなく、文字通り寝るだけの場所。料金は現代の価値で約300円程度と非常に安かったため、庶民が多く利用していました。
江戸時代の旅の最大の目的は、「伊勢参り」にありました。伊勢神宮への参拝は庶民の間で非常に人気があり、全国から多くの人々がこぞって伊勢を目指しました。伊勢参りは一生に一度は行ってみたい聖地巡礼とされ、日々の生活の安泰や願い事を成就させるために、人々は困難な道のりを歩み続けたのです。
伊勢参りを支えるために「伊勢講」と呼ばれる互助会制度もありました。これは、村の仲間たちが少しずつお金を積み立て、毎年くじ引きで代表者を決めて伊勢に送り出す仕組みです。代表者は、みんなのために伊勢神宮からお札を持ち帰り、その功績を称えられました。経済的に余裕がない人でも、この仕組みを利用することで、伊勢参りの夢を叶えることができました。
伊勢参りができない人々のために、驚くべき風習が江戸時代には存在しました。それが「おかげ犬」です。病気や高齢で旅ができない人は、代わりに飼い犬を伊勢神宮に送り出しました。おかげ犬は首にお金を入れた袋を下げ、旅をすることで参拝者の願いを叶える存在として信仰されました。
道中、犬は人々に親切にされ、食べ物を与えられたり、無事に伊勢に到着できるように手助けされました。
特に有名なおかげ犬には、白という名の賢い犬がいました。白は飼い主の代わりに伊勢参りを果たし、無事に帰還したことで大変な評判を呼びました。京都のある寺には、白を祀る石像が今も残り、その勇敢な旅路が語り継がれています。
江戸時代の旅は、単なる移動手段以上に精神的な意味が強く、神聖なものとして扱われていました。現代のように飛行機や新幹線で快適に移動することはできず、徒歩で何日もかけて目的地に辿り着くという、まさに人生そのもののような旅路です。旅の間には、思わぬ出会いや苦難がありましたが、そこには必ず人々の助け合いと温かさがありました。
そんな厳しい旅でも、人々が遠方の地を目指した理由は、ただ一つ。「自分の願いを叶えるため」。そして、その願いを胸に、人々は疲れた体を引きずりながらも、歩み続けたのです。
今、私たちが体験する旅行とは全く異なる、江戸時代の旅行。その姿を思い浮かべると、当時の人々の強い意志と信仰心に感服せざるを得ません。
現代の旅行と比較すると、江戸時代の旅は遥かに過酷でしたが、その中にも人情や文化、信仰が深く根付いていたことがわかります。江戸時代の人々にとって旅とは、単なる移動手段ではなく、人生の一部でもあったのです。
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=F6CQlFStuzQ,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]