私たちが知っている日本史のエピソードには、長年誤解されてきたものや、後世に脚色されて伝わったものが数多くあります。時代の変遷と共に、歴史は勝者の都合で書き換えられることも珍しくなく、近年の研究によって意外な実像が明らかにされつつあるのです。
「道鏡」といえば、日本三大悪人の一人として名高く、天皇の寵愛を受けて驚異的な速さで出世した僧侶です。特に有名なのは、天皇位への即位を狙ったという悪名高いエピソードでしょう。しかし、近年の研究では道鏡が必ずしも天皇位を望んでいたわけではないとされています。
道鏡が天皇位を欲していたとされるのは江戸時代以降の資料で、奈良時代の史料にはそのような記録が見られません。むしろ、当時の道鏡は天皇の一方的な信頼を受けて昇進したというのが現実で、彼が自ら位を奪おうとしていた可能性は低いと見られています。
また、天皇位を狙った罪としては軽い左遷処分で済んでいることからも、道鏡の評判は後世の脚色の結果である可能性が高いと言えるでしょう。
戦国時代の有名なエピソード、長篠の戦いでは織田信長が「鉄砲三段撃ち」を用いて武田軍を圧倒したとされています。しかし、三段撃ちが実際に行われたかどうかは近年疑問視されています。
まず、長篠の戦場は三千人もの兵が三列に並べるほどの広さはなかったとされ、また、実際に使用された鉄砲の数も誇張されていた可能性が高いとされています。信長の革新的な戦術というイメージが広がっていますが、当時の戦場では三段撃ちが行われた証拠は見つかっておらず、鉄砲の有効活用が勝因であったことは事実ですが、三段撃ち自体は後世に作られた可能性が高いのです。
「江戸時代=鎖国」というイメージは強く、教科書にもそのように記載されています。しかし、実際にはオランダ以外の民間貿易も行われていたのです。江戸幕府が鎖国政策をとった理由には、キリスト教の布教を防ぐことと、貿易の利益を幕府が独占する目的がありました。
実際にはオランダや中国(当時の明)との貿易が行われており、琉球王国を通じた薩摩藩の貿易や、松前藩がアイヌとの交流を行うなど、日本は完全に孤立していたわけではありませんでした。鎖国政策とは、実際には幕府による貿易独占体制だったのです。
「田沼時代」といえば賄賂政治で混乱を招いたとされていますが、近年では田沼意次の先進性が再評価されています。田沼は財政難に陥っていた幕府に対し、年貢以外での収入を増やすための政策を積極的に導入しました。
全国で流通していた特産品に課税する仕組みを作り、金銀の産出が減少していたため貿易においてもアワビや銅などを輸出することで財源を確保しました。
しかし、商人たちとの癒着や賄賂が増加し、また浅間山の噴火や飢饉などの自然災害が重なり、田沼の政治は最終的に失敗に終わりました。とはいえ、田沼が先見性を持って打ち出した政策がその後の日本の経済政策に与えた影響は大きく、近年では再評価の声が高まっています。
幕末、井伊直弼は「安政の大獄」と称される弾圧を行い、多くの反幕府派を投獄・処刑しました。直弼はアメリカとの通商条約を幕府の許可を得ずに締結し、強引に開国へと舵を切った人物として知られています。
しかし、直弼は実は元々開国には慎重な立場で、天皇の許可を得た上で外交を進めたかったとされています。しかし、幕府内の方針は既に開国に決まっており、国を守るために井伊は一歩を踏み出さざるを得なかったのです。
彼の強引な政策は、国の存続と幕府の権威を守るためのものであったと考えられます。その後、直弼は水戸藩士たちに暗殺されましたが、彼の覚悟と決断が日本の近代化への道を開いたことは間違いありません。
歴史は、時代の風潮や価値観によって何度も書き換えられてきました。後世の脚色や誤解が伝わることで、真実とは異なるイメージが広まることも少なくありません。教科書に載っていない日本史の裏側、皆さんはどう感じましたか?新たな視点で歴史を見つめ直すきっかけにしてみてください。
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=eWFVVG6n8QQ,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]