1867年10月14日、徳川慶喜が明治天皇に政権を返上した「大政奉還」は、幕末の日本を大きく動かしました。これにより、幕府から朝廷へと政権の座が移行し、徳川家も薩長と争う必要がなくなるかに見えました。しかしそのわずか数ヶ月後、両者は「戊辰戦争」として激突します。なぜ、大政奉還を行ったにもかかわらず戦争が勃発してしまったのでしょうか?
徳川慶喜が大政奉還を決意した背景には、幕府が国内外の圧力にさらされていたことがありました。開国以降、外国勢力が日本に接近する中で、幕府はその地位を脅かされ、また国内では尊王攘夷を掲げる倒幕派が勢力を伸ばしていました。慶喜はこの状況に対処すべく、天皇を中心とした新たな政治体制を目指しつつ、自らもその中心に立つことを狙っていたとされています。
大政奉還は、徳川家の実権を保ちつつ、形式的に政権を返上することで倒幕派の攻撃理由を取り除く狙いもありました。慶喜は「武家議会」を構想し、徳川家が天皇の下で政権運営を行う立場を目指していたのです。しかし、倒幕派である薩摩藩や長州藩は、これをもって徳川家が政治の中心にとどまることを許さないと考えていました。
大政奉還が行われたにもかかわらず、薩摩藩の西郷隆盛や長州藩の木戸孝允らは、完全な倒幕を目指して動き続けました。そして、1867年12月9日、朝廷は「王政復古の大号令」を発布します。これは、天皇を頂点とする新政府の樹立を宣言し、従来の幕府を完全に排除するものです。この大号令により、徳川慶喜は全ての官位と領地を返上するように求められ、徳川家は事実上の解体を迫られることとなりました。
しかし、慶喜はこれを受け入れませんでした。朝廷に政治を返上したものの、幕府は依然として実務を担っていたため、慶喜としては政治に関わり続ける意思があったのです。
こうした緊張の中、薩摩藩は江戸での挑発行為を展開しました。これにより江戸の薩摩藩邸が襲撃されると、薩摩藩は幕府が攻撃を開始したとみなして戦闘準備を整えます。1868年1月3日、京都における「鳥羽・伏見の戦い」で、ついに両者は激突。新政府軍が「錦の御旗」を掲げたことで、徳川家は「朝敵」とされ、武力をもって打倒される運命に追い込まれます。
この戦いにおいて、慶喜は大阪城に退却し、その後、江戸へと逃げ帰るという選択をしました。西郷はこの機を逃さず、慶喜の軍が退却したことで新政府軍は勢いづき、戊辰戦争へと戦火を広げていくことになります。西郷の強硬な姿勢は、倒幕を確実なものにするための計画的なものでありました。
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