優秀なきょうだいを持つと、しばしばその影に隠れ、比較されることも多くあります。平安時代の日本文学に名を刻む紫式部も例外ではありません。彼女の弟、藤原惟規(ふじわらのこれのり)もまた、彼女の優秀さと比較されながら人生を歩みました。『光る君へ』でも描かれる惟規の人生は、表向きは大きな名声を持たないように見えますが、果たして彼はどのような人物だったのでしょうか?
紫式部の父・藤原為時(ためとき)は、学識深い漢学者で、花山天皇にも漢詩文を教えた人物です。為時は自らの知識を我が子にも伝えようとし、熱心に漢籍を教えましたが、惟規はなかなか覚えられず、すぐに忘れてしまうことが多かったそうです。その一方で、横で聞いていた姉の紫式部は、スラスラと覚え、父を感心させました。「ああ、この娘が男であれば……」と、父が嘆いたとされるエピソードからも、紫式部の才能が際立っていたことが伺えます。
『紫式部日記』には、惟規について「式部丞(しきぶのじょう)」と記載があり、これは姉である紫式部が書き記したものです。
姉は控えめで内向的な性格である一方、惟規はのんびりとした自由奔放な性格で、周囲にこだわらないマイペースな人物でした。姉が弟について書き記したことは、「困った子だなあ」と苦笑しながらも愛情を抱いていた証かもしれません。少なくとも彼の個性は、当時の朝廷社会の厳格な規範の中で際立っていたと言えるでしょう。
惟規は、若くして文章生(もんじょうしょう)に就き、その後も少内記(しょうないき)、兵部丞(ひょうぶのじょう)、六位蔵人(ろくいのくろうど)などを経て、従五位下にまで出世を果たしました。実際に、彼は多くの和歌を詠み、勅撰和歌集に9首が収められるなど、文学的な素養も見せています。これは紫式部とは異なる方向での才能であり、彼なりの道を歩んでいたことを示しています。
また、惟規は「モテる男」だったのではないかという話もあります。『今昔物語』に登場する逸話によれば、彼が斎院(さいいん)に忍び込んで捕らえられた際、咄嗟に詠んだ和歌が美しいとされ、斎院の選子内親王に気に入られ無罪放免となったという話があります。
神垣は 木の丸殿に あらねども 名のりをせねば 人とがめけり
この和歌は機転が効いた巧妙な歌で、相手の興味を引き、惟規の機知が感じられるものです。当時、和歌は人とのつながりを深め、また魅了する手段として非常に重要なものでした。この歌で惟規が「モテる男」としての一面を見せたのかもしれません。
寛弘6年(1009年)の大晦日、中宮御所に盗賊が押し入るという事件が起こりました。姉の紫式部は弟がこの場で活躍することを期待していたようですが、惟規はさっさと退出してしまいました。この時、姉は失望したとされていますが、この行動もまた、惟規らしいマイペースさの現れでしょう。どんな場面でも自分のリズムを守ることができる自由な性格は、彼の魅力でもあったに違いありません。
その後、惟規は父・為時とともに越後に赴任しますが、現地で早世してしまいました。従五位下という位階に昇り詰めながらも、若くして命を落としたことは、彼の人生の評価を大きく下げてしまう結果となりました。
惟規の死は父や姉にとっても大きな悲しみであったことでしょう。父の為時もまた、任期を残して都に戻り、悲嘆に暮れる日々を過ごしたと伝えられています。
藤原惟規の人生は、優秀な姉・紫式部と比較されながらも、彼自身の生き方を貫いたものだったと言えます。彼は、漢籍の素養こそ姉には劣っていたかもしれませんが、和歌や文学の才、自由で機知に富んだ個性で周囲に一目置かれていました。彼のモテるエピソードや飄々とした行動は、紫式部の弟という存在にとどまらない、彼自身の個性を象徴しています。
紫式部と藤原惟規のきょうだい像は、互いに違う性格を持ちながらも、それぞれの道を歩んだ人間味あふれるものであり、『光る君へ』で描かれる二人の物語は、その独特の魅力を浮き彫りにしています。彼が夭折しなければ、さらにどのような功績を残したのか、そして姉とどのような関係を築いていったのか、歴史にもし残されていれば、また異なる評価が与えられていたのかもしれません。
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