武田家と言えば、戦国時代に恐れられた強者たちの集団であり、その中でも赤い装束を纏った「赤備え」として知られる勇敢な戦士たちがいました。この赤備えの祖であり、武田四天王の一人・山県昌景の兄、飯富虎昌は、信玄の嫡男である義信の傅役を務めるなど、武田家にとって欠かせない存在でした。しかし、彼の運命は信玄と義信の対立に巻き込まれることにより、大きな悲劇へと向かっていきます。
飯富虎昌は、永正元年(1504年)に甲斐源氏の一族である飯富家に生まれました。甲斐源氏の血を引くこの一族は、源義家の四男・源義忠にまで遡ることができ、その誇り高き血筋を引き継いでいました。虎昌は若くして武田信虎に仕えましたが、享禄4年(1531年)には反旗を翻し、栗原氏と共に信虎に対抗する大規模な戦を繰り広げました。
虎昌は、信玄の父・信虎が駿河に追放された後、信玄を支え、武田軍の猛将として名を馳せます。特に、村上義清や上杉謙信といった強敵との戦いでは、恐れを知らない戦士として活躍しました。彼の赤備えの装束は、味方を鼓舞し、敵を震撼させる象徴的な存在となり、武田軍団において一目置かれる存在だったのです。
信玄は虎昌を厚く信頼し、息子である義信の傅役に任命しました。これは単なる任務ではなく、次期当主を育てる重大な責務であり、虎昌にとっても非常に名誉なことでした。義信の初陣に際して、虎昌は義信の具足を自ら着付ける役目を担い、武士としての礼儀と戦いの精神を教え込んだと言われています。
しかし、この信頼関係もやがて暗い影が差すこととなります。永禄4年(1561年)頃から信玄と義信の間に対立が生じました。信玄が織田信長と同盟を結び、武田家の今川家との関係が悪化する中で、義信は今川義元の娘を正室に迎え、今川氏と深い関係を持つ立場として不満を抱きました。
信玄は信長との同盟を強化し、甲尾同盟を結び、さらには四男の武田勝頼を信長の養女である遠山夫人と結婚させました。これにより今川家との決別が明確となり、義信は深い苦悩に苛まれます。虎昌はこの対立の中で、義信の側近としてその苦悩を目の当たりにしながらも、彼を守るために尽力します。しかし、信玄の命令に背くことは許されず、次第に難しい立場に追い込まれていきました。
永禄8年(1565年)、事態は急転し、虎昌は信玄によって謀反の疑いをかけられ、最終的に切腹を命じられます。一説には、虎昌が義信と共に信玄への謀反を企てたとされていますが、真相は定かではありません。信玄の息子である義信に対する疑念が深まり、最側近であった虎昌の処刑によって事態を収めようとしたとも言われています。虎昌の死は、義信と信玄の父子関係に深い亀裂をもたらし、その余波は後に武田家全体を揺るがすこととなります。
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