戦国時代、日本の北信濃で繰り広げられた熾烈な戦い――それが川中島の戦いです。今回は、特に第二次川中島の戦いに注目し、この戦局を大きく左右した旭山城の役割について見ていきましょう。
1555年、武田信玄は北信濃へと進出しました。その目的は、領地を拡大しつつ、越後の名将・上杉謙信の勢力を削ぐことです。しかし、謙信は決して手強い相手ではありません。信玄は戦略を練り、遠征中の謙信の不在を突いて北信濃を制圧する計画を立てました。信玄の目標は、川中島の中心地である善光寺平の支配権を手に入れることにありました。
信玄は旭山城という標高700mの山城に注目します。この旭山城は、周囲の地域を見渡せる場所に位置し、善光寺平全体に対する武田家の影響力を誇示する拠点でした。
信玄は、この山城を守りながら、北信濃を戦略的に支配し、謙信に対する挑発として武田の旗を掲げさせました。これにより、旭山城は敵軍にとって攻めの標的となり、同時に「この地域の主導権は武田家にある」というメッセージを示しました。
謙信は信玄の意図を理解していました。旭山城を攻略するには、補給路を断つ必要があります。そこで、謙信は旭山城の北方にある葛山城と大峰城を改修し、付け城として配置します。この配置により、旭山城を孤立させ、武田軍の補給路を断つ戦術を取ったのです。
特に、旭山城の守りを強化していた栗田氏は、元々この地域の国人であり、善光寺の利権を守る立場にありました。この既得権益が争いの火種となり、旭山城の攻略が一層困難なものとなったのです。
旭山城が孤立した中、信玄は援軍を送り、犀川南側に本陣を構えます。謙信もこの動きを封じるために出陣し、両軍は川中島の平野でにらみ合いが続くこととなります。この緊張状態は200日にも及び、謙信も川を越えようと数度の試みを行いましたが、信玄の防衛は固く、決定的な戦果には至りませんでした。
両軍が動かずに長期戦を展開する中、今川義元の仲介により、ようやく停戦が提案されます。ここで謙信が提示した撤退条件は「旭山城の破却」。この一つの城の存在が、戦局の行方を大きく左右したのです。
旭山城の存在は、単なる軍事的な拠点を超えて、信玄と謙信の戦略的な駆け引きを象徴するものでした。この戦いにおいて、一つの山城がいかにして両軍の動きを制約し、戦の主導権を握る要素となるかが示されました。戦国時代の城取り合戦は、まさにこのような高度な戦略と知略のぶつかり合いであり、旭山城がどれほど重要な役割を果たしたかを振り返ると、その壮絶さが改めて感じられます。
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引用元:https://www.facebook.com/bushoojapannews/posts/pfbid0aasq4rw9TEcrnuCC84ST84X3Xnihu3ka9r2NqMQco8Aj6cTEP5BjwE2rRsESTevDl,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]