平安時代、出産は命がけの一大事だった。それは、単なる肉体的な試練にとどまらず、霊的な戦いでもあった。今回は、紫式部が「紫式部日記」に記した中宮彰子(藤原道長の娘)の出産を題材に、平安時代の出産がいかに困難で、何が行われていたのかを探る。
時は1008年の秋、彰子は日常天皇の妃であり、道長にとっても待望の子供を産むべき存在だった。なぜ道長がこれほど彰子の出産に執着していたのか。それは、道長にとって男の子が生まれれば、次の天皇の祖父として一層の権力を手に入れられるという期待があったからだ。
実際に、道長は彰子が妊娠した際から、その出産が成功することを最優先に考え、安産を祈るためのあらゆる手段を講じていた。その一つが、僧侶や陰陽師による祈祷である。紫式部日記には、彼らが何ヶ月も前から彰子の周りに集まり、出産を成功させるためにさまざまな儀式が行われた様子が描かれている。
道長が特に力を入れたのが、彰子の出産に邪魔をする「物の怪」(悪霊)を退散させるための儀式であった。12人の僧侶が24時間体制で読経を続け、さらに四天王の像を配置して、あらゆる方向から悪霊を撃退しようと試みた。紫式部は、この時の様子を「僧侶たちが大声で経を唱え、まるで悪霊たちが飛び回っているかのような音が響いていた」と記している。
さらに、出産の兆しが現れると、陰陽師たちが急遽建物の北側に彰子を移動させるよう指示した。当時、出産の場所やタイミングは、星の巡りや風水に基づいて厳密に選ばれた。悪い星回りがあると判断された場合、出産場所を移すことさえ行われたのだ。このように、出産は単なる身体的なプロセスではなく、周囲の環境や霊的な影響に大きく左右されるものと信じられていた。
紫式部にとって、彰子の出産は単なる記録以上のものであった。彼女は長年にわたり彰子に仕えてきた人物であり、その様子を近くで見守りながら記録を取るという役割を担っていた。紫式部は日記の中で、「彰子が陣痛に苦しむ中、私は彼女のそばでただ無力に祈るしかなかった」とその心境を記している。時に、僧侶たちの読経や陰陽師たちの祈祷が続く中で、紫式部自身も精神的に疲弊し、気を失いかけるほどの緊張感に包まれていたようだ。
また、道長の期待も計り知れないものがあった。彼にとって、彰子が男の子を産むことは、家柄の維持やさらに大きな権力を手に入れるための重要なステップだった。道長がどれほどの執念を持っていたかは、紫式部日記にも多くの描写が残っており、彼がどれほど儀式に力を入れていたかが鮮明に描かれている。
陣痛が始まってから、彰子は約36時間にわたる長い出産の試練に耐えた。
平安時代の出産は現代のように医療が発達していないため、自然の力に任せるしかなかった。そのため、多くの女性が命を落とす危険があった。さらに、出産は「もののけ」による妨害とも戦わなければならないと考えられていたため、霊的な戦いでもあったのだ。
道長の願いが通じたのか、彰子はついに男の子、後の敦成親王を無事に出産した。9月11日のお昼頃、ついに待望の誕生が訪れた。この瞬間、周囲の緊張は一気に解け、女房たちは感極まって涙を流したと伝えられている。
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