藤原道綱は、平安時代の貴族でありながら「無能」と評されることが多い人物でした。彼は政治的に大きな活躍をしたわけではなく、権力を握った弟・道長に従うことで自らの地位を守りました。今回は、そんな道綱の生涯を追い、その人間らしい側面に迫ります。
道綱は955年、藤原の兼家と、彼の第二夫人である藤原の道綱母の間に次男として生まれました。彼の母は、兼家が他の女性に心を寄せる中、嫉妬と孤独の中で道綱を育てました。兼家はしばしば彼女のもとを訪れましたが、それでも道綱はほぼ母と二人きりの生活を送りました。この関係が、道綱の性格形成に大きな影響を与えたと言われています。
幼少期の道綱は、母の影響を強く受け、母の寂しさを感じ取る敏感な子供でした。彼が父の訪問が少ないことを模倣して母を慰めようとする姿は、道綱と母との深い絆を象徴しています。この時期、母親の期待と愛情に応えることで、彼は「母のための存在」として成長していきました。
970年、15歳で元服を迎えた道綱は、父兼家のもとで貴族としてのキャリアをスタートさせました。しかし、その後、兼家の本妻である時姫が東三条殿に移住したことで、道綱母はますます孤立し、寺にこもるようになりました。道綱もまた、母に付き添う形で寺に籠る生活を送りましたが、この行動は兼家の怒りを買い、「母を説得できないとは情けない」と叱責される場面もありました。
母に振り回される中でも、道綱は貴族としての義務を果たすために父のもとに通い続けましたが、その立場は弟の道長に比べて弱いものでした。政治的な出世争いでは、兄の道隆や弟の道長に先を越され、彼の評価は低いままでした。
道綱の出世が大きく進んだのは、道長が権力を握り始めた時期でした。道長の本妻である源氏の友子の妹を妻としたことにより、彼は弟道長との関係を強め、兄弟としての立場を確固たるものにしていきます。30代に入り、道綱は火山天皇の出家や退位の際にも道長と共に行動し、権力者としての役割を果たしました。しかし、これらの活動は、すべて道長の後押しによるものであり、彼自身の政治手腕によるものではありませんでした。
995年、道綱の母が亡くなり、彼は一族の中で年長者としての立場を固めましたが、その後も道長への依存は続きました。道長が権力の座を手に入れた後も、道綱は政治的には目立つことなく、道長の意向に従って動くのみでした。
藤原実資の日記には、道綱が「無能」として描かれており、実資は道綱を軽蔑した記述を残しています。特に、道綱が一月だけでも大臣にしてほしいと弟道長に頼み込んだエピソードは、彼の情けないイメージを決定づけるものとなりました。
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