今回は、紫式部の娘・藤原賢子(かたこ)の数奇な人生について紐解いていきます。彼女は「第二の三味(さんみ)」とも称され、百人一首にも選ばれるほどの才気溢れる女性でした。しかし、偉大な母を持つ娘としてのプレッシャーと、波乱に満ちた恋愛や結婚生活に直面しながらも、自らの道を切り開いた賢子。その強い意志と波乱万丈の人生を見ていきましょう。
賢子は999年頃、紫式部と夫・藤原宣孝(のぶたか)との間に誕生しました。当時、父・宣孝は紫式部よりも20歳以上も年上で、結婚生活はわずか3年で幕を閉じます。宣孝は賢子がまだ3歳の時に疫病で他界。紫式部は夫の死に深く悲しみ、ふさぎ込む日々が続きました。
「この子のために生きなければならない。」
夫の死を乗り越えるために紫式部が掴んだのは、娘・賢子への愛情と、そして『源氏物語』を完成させるという執念でした。
その後、紫式部は中宮彰子(しょうし)に仕えることとなり、幼い賢子は実家に預けられます。
「私も、あなたのために働くのですよ。」母の愛を胸に刻んだ賢子は、紫式部との短い時間を支えに成長していきました。
紫式部が亡くなった後、賢子は母の後を継ぎ、宮廷で女房としての生活を始めます。偉大な母の娘であるがゆえに、周囲の目は厳しいものでした。
「本当にあの紫式部の娘かしら?美しくて、歌も上手で、完璧すぎるわ。」彼女に注がれる嫉妬や羨望の視線にも、賢子は怯まずに立ち向かいます。
「私には他の人とは違う覚悟があるのよ。」
宮廷での生活は楽ではなく、賢子は母の日記や教えを頼りに、確かな足取りで仕事に慣れていきます。祖父や周囲の助けを得て、賢子は次第に宮中での信頼を勝ち取り、次第に「越後の弁(えちごのべん)」としての地位も確立していきました。
賢子はその美貌と才能から、数多くの男性に慕われました。しかし、その恋愛は一筋縄ではいきません。ある時、長い間連絡が途絶えていた恋人から届いた歌に、賢子はこう返します。
「有馬山 稲葉の笹に 風吹けばいでそよ人を 忘れやはする」
この歌は百人一首に選ばれ、今でも多くの人に親しまれています。風が吹けば必ず笹が揺れるように、私はあなたを決して忘れない――その軽やかながらも芯のある言葉が、賢子の魅力を象徴しています。
一方で、賢子は軽薄な男性や浮気癖のある相手にも巧みに対応します。藤原定頼(さだより)からの和歌には、さりげなく皮肉を込めた返歌を送り返し、相手をたじろがせることもしばしばありました。彼女の恋愛は、母・紫式部とは異なり、時に大胆でありながらも自分を見失わないものでした。
その後、賢子は14歳年上の西宮の神・藤原兼高(かねたか)と結婚し、家庭を築きました。
しかし夫婦生活は順調ではなく、兼高が遠方の太宰府に赴任した際には、賢子は単身で夫を追いかけることを決意します。
「今生の別れとなってしまうかもしれないから、もう一度彼に会わなくては。」
激しい潮流を越え、賢子は二度も太宰府への長旅を敢行しました。その覚悟と行動力は、当時の女性としては異例のものでした。
兼高の死後も、賢子は「第二の三味」として宮廷での活動を続け、80歳近くになるまで歌会に出席した記録が残されています。彼女の長寿とその活躍は、40代で亡くなった母・紫式部を大きく超えるものでした。
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=0l9S_er9n3Y&t=48s,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]