平安時代、藤原道長という人物が強大な権力を握り、彼の影響力が天皇や貴族社会全体にまで及んでいたことは歴史的に有名です。特に、彼が自身の娘・彰子を天皇に嫁がせ、その息子を天皇にしようとする野心は、後世に語り継がれるほどです。しかし、その道長が、一条天皇の崩御に深く関わっていたという話があるのをご存知でしょうか?
物語の発端は、一条天皇が倒れたことから始まります。実際、一条天皇は幼少期から体が弱く、病気にかかりやすい体質だったと言われています。しかし、彼が本格的に病に伏せることになったのは、観光八年(1011年)の五月のことです。天皇の病気が進行する中、貴族たちは天皇がこのまま崩御するとは考えておらず、一条天皇もまだ若いので、再び回復するだろうと楽観視していました。
一方で、藤原道長はこの状況を自分の野心を実現する絶好のチャンスと捉えていました。
道長の娘・彰子が産んだ待望の男子を天皇にしたいという強い願望を抱いていたため、早急に一条天皇に譲位させ、その男子を皇位に就けることが道長の目標となっていました。これにより、道長は自ら摂政としての地位を確立し、政治の実権を握ることができるのです。
一条天皇の病状がやや回復し始めた五月の末、道長は大江匡衡という占い師を呼び、天皇の運命を占わせました。この時、占いの結果として「天皇が崩御する」という不吉な予言が出たのです。この結果に驚愕した道長は、急いで天皇に譲位を促すよう進言しました。
「天皇の位を譲って、これからはゆっくりとお過ごしになればよいのでは?」という提案は、一条天皇にとっても響くものがありました。彼は7歳から25年間にわたって天皇としての重責を担ってきたことから、そろそろ譲位を考えても良い時期だとも思われました。しかし、次の皇位継承者を誰にするかという問題が大きくのしかかっていました。
一条天皇が回復の兆しを見せたことで、道長はますます焦りを感じます。彼の野心は、彰子の子供を一刻も早く天皇にすることに固執しており、そのためには一条天皇の譲位が不可欠でした。そこで道長は、天皇の耳元で「このままでは周囲から見放される」「民はあなたを嫌っている」と心理的な圧力をかけ続けます。この巧妙な心理戦が天皇に与えた影響は大きく、天皇の体調は再び悪化していきます。
このようにして、天皇は徐々に精神的にも追い詰められ、譲位を決意することになります。
ついに、運命の日がやってきました。六月十三日、天皇は三条天皇に譲位し、25年間続いた統治が終わります。しかし、この儀式は異例のものでした。天皇は病床から立ち上がることもできず、寝たままで儀式が行われたのです。さらに、儀式の最中に天皇は容態が急変し、周囲は一時的に大混乱に陥ります。
一条天皇は、譲位から数日後の六月十九日に出家を願い出ますが、彼の病状は回復せず、三日後の六月二十二日に崩御します。
一条天皇が亡くなる直前に残した辞世の句、「露の身の 風の宿りに 君を置きて…」は、今でも多くの謎をはらんでいます。この句に登場する「君」が誰を指しているのかは議論の対象となってきました。道長の娘・彰子を指しているのか、あるいは一条天皇が深く愛していたとされる貞子を指しているのか、はっきりした答えはわかりません。
この句がどちらに向けられたものであれ、一条天皇の最期の言葉は、彼の人生の中で抱えていた苦悩や、愛する者たちへの思いを反映していることは間違いありません。貞子を想って読まれたものであれば、天皇の心の中にはずっと彼女が存在していたのでしょう。一方で、彰子に向けられたものであれば、彼女との関係にも深い情があったことがうかがえます。
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