「源氏」と聞くと、多くの人が鎌倉幕府を開いた源頼朝や、全九年の役で活躍した源義家、さらに武士のイメージを連想するでしょう。しかし、実際に源氏のルーツは天皇家にあり、最初は武士ではなく、上級貴族として活躍していたのです。この記事では、天皇一族として始まった源氏が、どのようにして武士として名を成していったのか、さらには藤原摂関家との関係についても解説していきます。
源氏の起源は、奈良時代の「親戚降下」にさかのぼります。親戚降下とは、天皇の直系でない皇族に姓を与え、彼らを皇族から外し貴族の一員とする政策です。奈良時代、天皇や皇族の数が増えすぎることで国家財政を圧迫していたため、天皇になる見込みのない皇族は皇籍を離脱させられました。これにより、彼らは天皇の親戚ではなく「源氏」として新たな身分を与えられ、自力で生活する必要が生じたのです。
この制度が導入された背景には、天皇一族の増加による財政問題がありました。当時、天皇や皇族たちは国家の財政から支援を受けて生活していましたが、子孫が増えるとその支出も増加していきます。結果として、天皇が本来行いたかった政策を実行できなくなり、財政を圧迫する大きな問題となっていました。そこで、天皇になれない皇族を親戚降下させることで、財政負担を軽減しようとしたのです。
親戚降下によって初めて「源氏」を名乗ったのは、平安時代初期の佐賀天皇の子供たちです。佐賀天皇は、50人もの子供がいましたが、そのうち32人を親戚降下させました。この際に、初めて「源」の姓が与えられ、ここに史上初の源氏が誕生したのです。佐賀天皇は、彼らに「自力で生きていけ」という親心から、姓を与えたとされています。
「源」という名前には、中国の「水の源」や「始まり」といった意味が込められており、佐賀天皇は、自分の子供たちが小さな源流からやがて大河となり、大きな力を持つ存在になることを願ったとされています。
こうして誕生した源氏ですが、彼らは単に天皇家から切り離された存在ではなく、依然として上級貴族としての地位を持ち続け、貴族社会で活躍していきます。
源氏は、その後も天皇家とのつながりを維持しつつ、時代を経て様々な系統に分かれていきました。特に有名なのは、藤原摂関家との衝突と妥協の歴史です。藤原摂関家は平安時代を通じて天皇を支配し、政治の実権を握っていましたが、源氏もまたその権力に関与することがありました。
例えば、源氏の一派である「清和源氏」は、藤原摂関家との政争に巻き込まれながらも、武力によってその地位を確立していきました。この過程で、源氏は徐々に武士としての道を歩むようになり、特に鎌倉幕府の源頼朝によって武士の時代が本格的に幕を開けることとなります。
しかし、藤原摂関家との対立は常に激しく、源氏は藤原家の策謀に巻き込まれることも多くありました。
たとえば、源の高明は藤原家の陰謀によって九州の太宰府に左遷され、その後没落していきます。このような政治的な闘争の中で、源氏は藤原家と衝突しつつも、その影響を受けながら成長していったのです。
源氏は親戚降下によって皇族から貴族、そして武士へと転身していく過程で、次第にその地位を失いつつありました。特に、数代後になると、地方の役職に就く者が増え、中央貴族としての存在感を失っていきます。しかし、それでも源氏は地方で力を蓄え、武士としての道を歩むようになっていきました。
やがて、10世紀には源氏の中から、武士として名を上げる者が現れ始めます。特に、源義家やその後の源頼朝は、武士としての源氏の代表的な存在であり、彼らによって源氏は武士階級の頂点に立つことになります。こうして、かつては天皇家の一部であった源氏は、武士のリーダーとして新たな時代を切り開いていくことになりました。
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