平安時代末期、藤原道長の強大な権力の陰で、一条天皇の死後に繰り広げられた陰湿な権力闘争。その犠牲者となったのが、道長の外孫でありながらも、皇位継承から外された敦康親王でした。道長の後押しで皇太子に立てられた異母弟・敦平親王と対比させられ、敦康親王が受けた迫害は、彼の人生を大きく揺るがすものでした。本記事では、一条天皇崩御後、敦康親王がいかにして道長の圧力に立ち向かっていったか、その運命を描いていきます。
一条天皇の崩御(1011年)は、藤原道長が皇太子に立てた敦平親王の権威を高める一方で、敦康親王の孤立を深める契機となりました。敦康親王は、貞子(藤原道長の娘)から生まれた第一皇子として、かつては将来の天皇候補と目されていましたが、明子が敦平親王を産んだことで、その立場は一変します。
道長は、明子の子である敦平親王を皇太子に据えるため、巧妙に敦康親王を冷遇し、宮廷から追いやっていきました。
特に一条天皇の死後、道長の影響力は絶大となり、敦康親王に対する嫌がらせが本格化します。
一条天皇の死後、敦康親王はまず一条院から追い出され、別の邸宅である二条邸に移されることになりました。この移動は、表向きには「敦康親王にふさわしい住まいを与える」という名目でしたが、実際には道長が一条院を確保し、異母弟である敦平親王の所有にするための策略でした。
さらに、一条天皇の葬儀においても、敦康親王は異例の立場に追い込まれました。道長は、天皇の慰霊を敦康親王に任せることで、「父親のために尽くす役目」を与えると見せかけながらも、実際には親王の地位を低く見せることを狙っていました。通常、天皇の慰霊は直属の宮司が務める役目であり、親王が行うことは極めて異例でした。これにより、敦康親王はまるで「従者」のように振る舞わざるを得なくなったのです。
さらに、敦康親王に対する道長の陰謀は、一条天皇の四十九日法要においても顕著に現れました。この法要では、納める布の量が故人との関係性を表す象徴となっており、敦康親王は道長によって明確に格下に扱われました。敦平親王が多くの布を納めたのに対し、敦康親王には道長と同程度の量しか与えられず、第一皇子としての威厳を損なうことを意図したものでした。
このような道長の策略は、敦康親王に対して宮廷内外での立場を低く見せるための徹底したものであり、親王を精神的にも追い詰めるものだったのです。
しかし、道長の圧力に対抗する者が現れます。それが、敦康親王の姉である長子内親王でした。彼女は一条院から弟を守るために、あえて道長の意向に逆らい、四十九日の法要後に自身の行動で反撃を試みました。長子内親王は、道長が設定した法要の形式に従わず、弟を連れて高いへ屋敷に移り住むという行動に出たのです。
この行動は、道長に対する明確な反抗であり、彼の支配に対する一種の「反旗」を翻すものでした。道長はこれに激しく動揺し、以後、長子内親王との関係に慎重になる一方で、敦康親王に対する仕打ちを続けます。
敦康親王は、姉の支えや周囲の一部の支持にもかかわらず、道長の圧力によって宮廷内での地位をますます低下させていきました。最終的に、敦康親王は道長によって二条邸を追い出され、別の場所に移されることとなりました。
道長の策略は、敦康親王を宮廷から完全に追い出すだけでなく、彼の精神をも蝕むものでした。しかし、敦康親王はこの厳しい状況にもかかわらず、最後まで自身の尊厳を守り抜きました。道長が追い落としを図る中でも、彼は藤原氏の圧力に屈することなく、その後の人生を歩んでいくことになります。
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