平安時代を代表する皇后・藤原定子。彼女が一条天皇との間に生んだ3人の子供たちは、その生涯が道長の策略に翻弄されたことで知られています。今回は、そんな定子の子供たち、特にその長男・敦康親王の波乱に満ちた運命に焦点を当ててみましょう。
定子と一条天皇との間に生まれた最初の子供は、長子内親王でした。この誕生は、当時の宮廷に大きな期待をもたらしましたが、一条天皇は定子が兄弟の不祥事によって出家同然の状態にあったため、宮廷に呼び寄せることができず、内親王の誕生を公に祝うことができませんでした。定子は「もし父・道隆が生きていたら、どれほど華やかな祝いになったことか」と心中で嘆いたと言われています。
長子内親王はその後も健やかに育ちましたが、母である定子が宮廷から遠ざけられていたため、一条天皇との関わりも限定的なものでした。しかし、天皇は定子との間にもう一人の子供が生まれることを願っていました。
やがて、定子は二人目の子供を妊娠します。そして生まれたのが、敦康親王でした。この時期、藤原道長の娘・彰子が一条天皇に嫁いでおり、道長は彰子を皇后にしようと画策していましたが、敦康親王の誕生により状況はさらに複雑化します。
一条天皇は息子の誕生に大いに喜び、「これで我が血筋が皇位を継ぐ」と感じていたようです。しかし、世間の反応は冷ややかでした。道長の影響力が強まる中、定子とその子供たちの立場は次第に危うくなっていきます。
敦康親王が生まれてから数年後、定子は第三子となる女子、脩子内親王を出産しましたが、その出産が彼女の命を奪いました。24歳という若さでこの世を去った定子。彼女の死後、残された3人の子供たちは母の後ろ盾を失い、宮廷内で孤立していきます。
特に敦康親王は、道長によって宮廷から遠ざけられる運命にありました。道長は、自分の娘である彰子の子供を次期皇太子にするため、定子の子供たちを政治的に排除しようとしたのです。
定子の死後、敦康親王はわずか数年で政治の舞台から姿を消すこととなります。道長は彼を自分の娘・彰子のもとに引き取らせ、あたかも実の息子のように扱わせました。しかし、道長の真の狙いは、敦康親王を表舞台から遠ざけ、彰子の子供を皇位継承者とすることにありました。
敦康親王はその後も宮廷内で一定の地位を保ちながらも、次第にその影響力を失っていきます。結局、彼は皇太子の座に就くことはなく、若くしてその生涯を閉じることとなりました。
敦康親王の姉である長子内親王も、母の死後は厳しい運命を辿ります。彼女は道長の影響を受け、宮廷内での立場を失っていきましたが、風流を愛し、静かに余生を送ったと言われています。出家後、彼女は生涯未婚のまま過ごし、その死もまた、運命に翻弄された一つの悲劇と言えるでしょう。
末の子である脩子内親王も、幼くして亡くなり、定子の子供たちは母の後を追うように次々と世を去っていきました。
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=M2Q1cl7Gm0s&t=42s,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]