戦争は、無数の若者たちの未来を奪い、彼らの運命を大きく翻弄しました。私の家族にも、そんな戦争の悲劇に直面した人物がいます。
私の父は昭和18年生まれ、山口県秘密尾(ひめお)という小さな町で生まれました。10人兄弟の末っ子として育ち、その中には双子の兄弟がいました。残念ながら、双子の片方は幼い頃に夭折してしまいましたが、生き残った双子の兄、私にとっては叔父にあたる人物は、戦争によってその命を早くも失う運命にありました。
叔父は、まだ19歳という若さで志願兵となり、戦場に向かうこととなったのです。本来、彼の年齢では徴兵される年齢ではなかったにもかかわらず、志願兵になることで役職が上がるという言葉に魅了され、志願する道を選んだのでした。
叔父は、山口県の徳山(現在の周南市)にあった軍事工場で働いていました。そこでは鉄砲の玉を製造しており、当時の日本は戦争によって、兵器の生産が最重要とされていた時期でした。叔父もまた、戦争という大きな波に飲み込まれ、日々、工場での重労働に従事していました。
その後、志願兵としての道を選んだ彼は、家族や近隣の人々から「万歳」と共に送り出されました。戦争に送り出す家族にとって、兵士を見送ることは当時の国のための「栄誉」とされていました。しかし、その「栄誉」は家族の本心ではなかったはずです。母親がどれほど心配し、不安に苛まれていたかを想像するだけで、胸が痛みます。
彼が所属した部隊は、ルソン島へ向かう途中で悲劇に見舞われました。ルソン島は、太平洋戦争の激戦地の一つであり、多くの兵士が命を落とした場所です。叔父の部隊も、上陸する前に船が撃沈され、多くの命が海の中に消えていきました。
叔父が亡くなったという知らせが家族のもとに届いたのは、戦争終結の少し前のことでした。家族のもとに届いたのは、彼の遺骨ではなく、ただの石ころが入った骨壷でした。それが現地の石であるのかどうかは分かりませんが、確かなことは、彼の肉体は既に失われていたということです。
19歳という若さで志願兵となり、命を散らした叔父のことを思うと、戦争がいかに無意味なものであるかを痛感します。もし戦争がなければ、彼にはもっと違う人生があったはずです。家族を持ち、仕事に打ち込み、日常の幸せを享受する普通の生活。それが戦争によって全て奪われてしまったのです。
父は、双子の兄を失った後もその影響を受け続けました。特に、家族全員が叔父の死を受け入れることができず、悲しみに暮れた日々が続いたといいます。戦争が終わった後、父の母親、つまり私の祖母は、よくこう語っていたそうです。「あの時、彼を送り出さなければよかった。戦争がなければ、あの子は今も生きていたはずだ」と。
祖母が感じたその後悔と痛みは、言葉では表しきれないものです。
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