敦康親王は一条天皇と藤原定子の間に生まれ、正真正銘の「天皇の子」として世に登場しました。母の定子は藤原一族の中でも名門中の名門に属しており、当初は将来の天皇としての道が約束されたかのように思われました。しかし、母定子が早くに亡くなり、さらには藤原氏の一族が没落する中、敦康親王は後ろ盾を失い、孤立していきました。
その一方で、父である一条天皇もまた、病に倒れ、天皇の座を早急に誰かに譲る必要が生じます。ここで浮上したのが、藤原道長の影響力です。道長は自身の孫を次の天皇に据えたいと画策し、敦康親王の皇位継承の可能性を消し去るために動き出しました。
一条天皇の病が重篤になると、道長は占い師を呼び、天皇が退位すべきかを占わせました。その結果は驚くべきもので、天皇が退位しなければ命を落とすかもしれないというものでした。
この占いの結果を聞いた道長は涙を流し、声を上げて嘆いたと伝えられています。しかし、一条天皇もこれを知ってしまい、自身の運命を悟ったかのように、より一層病は悪化したとされています。
道長の計略によって、一条天皇は退位を決意し、次の天皇を三条天皇とすることが決まりました。この時点で、敦康親王が次の皇位継承者として選ばれる可能性はほとんどなくなってしまいます。
平安時代の皇位継承は、単純に天皇の子供が次の天皇になるというわけではありませんでした。冷泉系と円融系という二つの皇族の流れが交互に天皇を出す「両統迭立」という暗黙のルールが存在していたのです。一条天皇が円融系であったため、次に天皇となるのは冷泉系の三条天皇であり、その後に円融系から次の天皇が選ばれるという流れでした。
しかし、この継承レースにおいて、敦康親王には圧倒的な不利な条件がありました。
彼の母系である藤原家が没落し、外戚としての後ろ盾を失っていたのです。一方、藤原道長の孫である後の後朱雀天皇は、道長という強力な外戚を持っており、この差が決定的となりました。
敦康親王は、13歳で次期天皇候補から外され、その後も皇族としての地位を保ちつつも、天皇にはなれませんでした。彼はその後も藤原道長の息子である頼道と婚姻関係を結ぶなど、貴族社会での地位は保たれていましたが、道長の陰謀と策略により、皇位に近づくことは二度とありませんでした。
若くして病に倒れた敦康親王の死は、20歳というあまりにも短いものでした。彼の死に関する記録は少なく、その死因や詳しい経緯はほとんど知られていません。しかし、その後の記録によると、藤原道長が病床にあった時、敦康親王の霊が現れたという恐ろしい話が残されています。道長にとって敦康親王の存在は、最後まで心の重荷であり続けたのかもしれません。
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