昭和の風情が感じられる一枚の写真。その中には、私の父が若かりし頃、独身寮で撮影されたものがいくつかありました。この写真に写る父は、シンプルで真面目そうな面持ちですが、よく見ると足元には下駄が。意外にも、当時の若者ならではのファッションにこだわりを見せていたのかもしれません。
父は昭和18年、山口県の小さな町で生まれ、中学を卒業してすぐに働き始めました。彼の職歴について、以前も「実家じまい記録」として書き記していますが、今回注目したのは、彼がかつて勤めていた「帝人三原工場」時代の写真。父は昭和38年から約10ヶ月、広島県にある帝人三原工場に勤めていたことが分かっています。この短期間ながらも、彼の中で強く印象に残っていたようで、生前、思い出話をする際にはこの時期の話が多かったのです。
昭和30年代の日本では、多くの若者が集まる寮がいわば第二の家でした。特に、地方から都会へと移り住む若者にとって、寮は仲間と共に暮らす場であり、家族のようなつながりが生まれる場所でもありました。写真に写る父とその仲間は、きっと共に汗水を流し、労働の後のひとときを楽しんでいたことでしょう。
独身寮の建物は、木造で飾り気のないシンプルな作り。それでも、そこで過ごした日々は、父にとってかけがえのない時間だったに違いありません。この写真が撮られたのも、そんな寮生活の中の一コマ。写真の中で父が楽しそうに仲間と談笑している様子は、当時の青春のひとときを物語っています。
写真に写るもう一人の男性は、ストライプシャツに帽子をかぶり、少しおしゃれを意識しているようにも見えます。この時代、洋服と下駄の組み合わせは特に珍しくなく、逆に「粋な装い」として好まれていたようです。現代で見ると、下駄を履く姿は古風に映りますが、昭和の若者にとってはファッションの一部だったのかもしれません。
父もその一人であり、若い頃は下駄を履くことが日常だったようです。実家で見た彼のサンダルも、どこかその時代を感じさせるもので、昭和の男らしさを今に伝えています。
父がこの写真を撮影したと思われる「帝人三原工場」には、昭和38年7月13日から昭和39年4月28日まで在籍していたそうです。たった10ヶ月弱という短い期間ではありましたが、彼の中で強く記憶に残っていたのは、その仕事が楽しく、仲間と過ごす時間が充実していたからでしょう。
父がこの工場を辞めた理由には驚きの背景がありました。彼は生涯にわたって背が低かったこともあり、機械に手が届かず、仕事を続けることが難しかったようです。私が彼から直接聞いたわけではなく、彼が亡くなってからこの事実を知りました。それでも、その短い期間に撮られた数々の写真は、父が楽しい時を過ごしていた証です。
これまで私にとって「実家じまい」は、物理的な片付けだけの作業だと思っていました。しかし、実際に父の写真や手紙を見返すと、それは単なる整理ではなく、彼が生きた証を改めて感じる瞬間でした。この写真には、ただの一枚の「記録」を超えた、彼の青春と情熱が詰まっています。
写真を見返しながら、昭和の時代に思いを馳せると、父がどんな気持ちで下駄を履いて過ごしていたのか、どれほど仲間たちとの時間を大切にしていたのかが伝わってきます。
彼の歩んだ道を思い描きながら、この写真は家族にとって大切な「昭和の遺産」として、これからもずっと残していきたいと感じました。
父の独身寮時代の思い出と、当時の彼がどのように過ごしていたかについて掘り下げました。昭和の風景に触れながら、父の人生の一部に共感し、私たちもその一端を感じ取ることができるのではないでしょうか。
引用元:https://www.instagram.com/p/C-oDGrkzvbA/?igsh=MXFzMnJleXY1NGV2ag==,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]