平安時代、藤原道長という絶対的な権力者の娘として生まれた妍子(けんし)は、華やかな貴族社会の中で、その運命を大きく揺さぶられました。彼女の生涯は、姉である彰子(しょうし)と比較され続け、さらには父・道長の意向に翻弄されるものでした。
妍子は、994年に道長とその正室である源明子(みなもとのあきこ)の間に次女として生まれました。姉の彰子とは6歳差、兄の頼通(よりみち)とは2歳差で、彼女は藤原家の重要な一員として幼少期を過ごします。当時の貴族社会では、姉妹間での対抗意識が強く、妍子もまた、華やかな生活を送る彰子に対抗心を燃やしていました。
幼い妍子は、父・道長の計画のもとで将来の皇妃として育てられました。彼女は5歳の時に、後に三条天皇となる敦明親王(あつあきらしんのう)への降嫁が決まりました。これにより、妍子の運命は藤原家の権力闘争の中心に巻き込まれることとなります。
妍子は、豪華な衣装や派手な宴を好む性格で、質素を重んじる彰子とはたびたび衝突しました。特に、彰子が後一条天皇の母として絶対的な権力を握る一方で、妍子は三条天皇に嫁いだものの男子を産むことができず、次第に姉との差が広がっていきました。
三条天皇と道長の対立が激化し、政治的に孤立していく中で、妍子の地位も次第に危うくなっていきます。彼女は派手な宴を繰り返すことで、自分の存在をアピールしようとしましたが、これがさらに道長や彰子との対立を深める結果となりました。
16歳で三条天皇に嫁いだ妍子は、34歳の三条天皇との年齢差に加え、すでに他の妃たちが男子を産んでいたため、政治的なプレッシャーの中で暮らしていました。彼女が出産したのは女子であり、道長の期待を裏切る結果に。道長はこれに激しく落胆し、妍子への支援を次第に減少させていきました。
その後、三条天皇は視力を失い、病に倒れます。これにより、道長との対立は決定的となり、三条天皇は退位を余儀なくされました。妍子は若くして夫を失い、皇后としての地位を奪われ、一人娘である貞子内親王(さだこないしんのう)とともに孤独な生活を送ることになりました。
妍子が唯一の希望を託したのが、娘の貞子内親王でした。彼女は貞子を通じて再び自分の地位を取り戻そうとしましたが、その道は決して容易ではありませんでした。特に、彰子の息子である後一条天皇が即位したことで、藤原家内での力関係は彰子に有利に傾き、妍子はますます孤立していきました。
貞子内親王は後に三条天皇の血を引く唯一の皇族として、母の遺志を引き継ぎますが、妍子が果たせなかった男子の出産という重要な役割を担うこととなります。これにより、貞子内親王は藤原家において重要な地位を占めることになり、母としての妍子の影響力は残り続けました。
妍子の人生は、華やかさと悲劇が交錯するものでした。彼女は姉・彰子との対立に苦しみ、夫である三条天皇の死後も、自らの存在を貴族社会で示そうとしましたが、その努力は報われませんでした。妍子は33歳の若さでこの世を去り、母としての責務を果たしきることはできませんでした。
彼女の死後、藤原家内での力関係はさらに変化していきます。貞子内親王は、その後、三条天皇の血を引く息子を産み、藤原家の権力構造に新たな影響を与えましたが、妍子が生前に抱いていた苦悩や願いが完全に実現することはありませんでした。