紫式部といえば『源氏物語』の著者として知られ、平安時代の文学の象徴的な存在です。しかし、彼女の実像はあまりにも「理想化」されており、その本当の姿についてはあまり語られていません。今回は、大河ドラマでも触れられない、紫式部の知られざる一面を深掘りしてみましょう。
紫式部は、藤原氏の分家である藤原為時を父に持つ学者一家に生まれました。彼女の生まれた年は973年頃とされていますが、正確な記録は残っていません。彼女の母は早くに亡くなり、幼少期の紫式部は決して裕福な家庭に育ったわけではありませんでした。父の為時は中国の歴史や文学に精通しており、彼女もその影響で漢文を学ぶなど、知識を深めていきました。
この時代、女性が学問を修めることは珍しかったのですが、紫式部は幼いころから特別な教育を受け、その結果、後に『源氏物語』という歴史的な名作を生み出すまでに至ります。
しかし、その家庭環境は決して恵まれておらず、母を早くに亡くし、父も高官ではなく、一家は生活に困窮する時期もあったと言われています。
紫式部は晩婚で、29歳頃に藤原宣孝と結婚しました。平安時代では、13歳から14歳での結婚が一般的だったため、かなり遅い結婚だったことがわかります。夫の藤原宣孝は紫式部よりも年上で、彼女の人生に大きな影響を与えました。
結婚後、二人の間には娘が生まれますが、結婚生活は長くは続きませんでした。結婚してから3年ほどで、夫の宣孝が病に倒れ、若くして亡くなってしまったのです。この出来事は紫式部にとって大きな悲しみであり、その心情を歌に詠んだことが彼女の作品にも反映されています。
夫の死後、幼い娘を育てるために紫式部は再び宮仕えを余儀なくされます。この頃から、彼女の名前は貴族社会でも広く知られるようになり、後に一条天皇の后である中宮彰子に仕えることになります。
紫式部の日記には、彼女の宮廷生活や貴族たちとの交流が克明に記されていますが、特に注目されるのは、同時代に活躍した清少納言との対立です。清少納言は『枕草子』の著者として知られ、紫式部とは異なる文学的アプローチで名を馳せました。
紫式部は清少納言について、厳しい言葉を日記に綴っています。「漢文の知識は未熟で、時々間違いをしているのに、周囲には自分が特別だと思い込んでいる」といった批判が記されており、清少納言の知識や才能に対する嫉妬があったのかもしれません。宮廷の中で、二人がそれぞれの才能を発揮しながらも、競い合う関係にあったことがうかがえます。
しかし、紫式部は清少納言に対して表立って対立することは避け、むしろ宮廷の中では控えめに振る舞うことを心掛けていたようです。この「控えめな振る舞い」こそが、彼女の生き方の特徴であり、彼女が生き抜いた平安時代の宮廷生活の厳しさを物語っています。
紫式部の宮仕えの様子や、人間関係における葛藤は、『紫式部日記』に詳しく描かれていますが、特に注目されるのは、彼女が抱えていた「裏の顔」です。表向きは静かで控えめな彼女も、内心では宮廷での人間関係や権力闘争に苦しんでいたことが、日記の中で赤裸々に綴られています。
特に、彼女の言葉遣いや皮肉が随所に見られます。例えば、同僚に対する批判や、権力者に対して内心でどう思っていたのかなど、彼女が抱えていたストレスや葛藤が日記に反映されているのです。この「裏の顔」は、私たちが抱く理想の紫式部像とはかなり異なり、彼女がいかに現実的な問題に直面していたかを示しています。
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