敦康親王は一条天皇の第一皇子として生まれました。彼の母親である中宮定子は天皇の正妻であり、その地位から見れば、敦康親王が次の皇位継承者となるのは当然のことでした。しかし、定子が早くに亡くなり、さらにその実家である藤原氏の一派、特に定子の兄・藤原伊周(これちか)が失脚したことにより、敦康親王は母方の強力な後ろ盾を失うことになりました。
これに対して、当時の実権を握っていた藤原道長は、自身の娘・彰子を新たに一条天皇の中宮として迎え入れました。彰子は後に敦明親王を産み、道長にとっては孫にあたる敦明を次期天皇にする計画を進めていきます。
1011年、一条天皇は重病に倒れました。この時、彼が病に伏している間、天皇の後継問題が浮上しました。藤原道長は、大江匡衡(おおえのまさひら)という学者に占いを依頼し、その結果、一条天皇の病が重く、上皇に退位することを勧めるとの結果が出たのです。
道長はこの結果を天皇に伝える場面で号泣し、その様子を天皇自身がこっそりと見ていたという記録も残っています。天皇は「自分は死ぬのか」と悟り、ますます病状が悪化したと言われています。これは雪のように白い嘘かもしれませんが、道長の巧妙な策略だったとも考えられます。
このような状況の中で、次期皇位継承者として誰が選ばれるのかが大きな問題となりました。敦康親王と、道長の孫である敦明親王、どちらが次の皇太子になるか。敦康親王は13歳、敦明親王はわずか4歳でした。皇位継承者の選定が迫られる中、藤原道長は全力で敦明親王を推し進めることになります。
歴史の流れを知っている私たちから見ると、藤原道長の力が圧倒的であったため、敦康親王が次の天皇になることは難しいとわかりますが、当時の人々にとってはまだ次期皇位が誰になるのかは不透明な状況でした。敦康親王が選ばれる可能性も決して低くはなかったのです。
しかし、道長はこのチャンスを逃すことなく、巧みに動きました。まず、道長は独断で一条天皇の退位を提案し、周囲の大臣たちを巻き込んで議会を開かせます。そして、天皇に相談することなく、退位の準備を進めてしまったのです。こうして、一条天皇は事実上、退位を余儀なくされ、次期皇太子には敦明親王が選ばれることになりました。
敦康親王はこの決定により、皇太子となる機会を失いましたが、それでも名誉職としての高位を保ち、太宰大弐や式部卿などの役職に任命されます。裕福な生活を送りつつも、次期天皇としての夢は潰えたのです。
道長の孫である敦明親王との関係も、表面的には良好だったようです。敦康親王は道長の息子である頼道と義理の兄弟関係にあり、同じ宮中に住んでいたため、道長が頼道を見舞う際には敦康親王にも顔を出すことがあったと言われています。しかし、実際に道長が敦康親王をどのように見ていたかは謎に包まれています。
1017年、敦康親王はわずか20歳で急逝します。彼の死についての記録はほとんど残っておらず、詳しい死因やその時の状況も不明です。しかし、彼の死後、藤原道長の前に敦康親王の霊が現れたという恐ろしい話が伝わっています。
この霊の出現は道長を恐怖させ、一条天皇の若い崩御にも影響を与えたのではないかという噂もありました。敦康親王は天皇になることなく、短い生涯を閉じましたが、彼の霊が道長やその後の天皇に影響を与えたという逸話は、平安時代の人々に強い印象を残したのです。
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=9b3EFnLb9rA&t=44s,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]