藤原伊周(これちか)、彼は平安時代の貴族社会において、強力な存在感を放っていた人物でした。一条天皇の最愛の女性、藤原貞子(さだこ)の兄であり、道長のライバルでもあった彼は、栄光と挫折を味わいながらも、その遺言によって娘たちの将来を案じていました。
1009年、伊周は順調に出世し、道長と同等の地位にまで上り詰めました。後見人としての役割を確立し、貞子やその子供である厚平新王(のちの後一条天皇)の後見も期待されていたのです。しかし、彼の栄光は長くは続きませんでした。同年の2月、彼の叔母である高階光子が起こした「訴訟事件」に連座し、伊周は政治から退けられてしまいます。
この事件が彼の心に大きな打撃を与え、病に倒れ、1010年には38歳の若さで命を落とすことになります。彼が病床に伏していた頃、枕元には二人の娘と一人の息子が呼ばれました。伊周は最期の時、娘たちの行く末を何よりも心配していたのです。
「私が生きている間は、娘たちを天皇の妃や女房として仕えることができた。しかし、私が亡くなれば、彼女たちがどんなに厳しい運命にさらされるか、考えるだけで胸が痛む」と、彼は嘆きました。貴族社会での女性の立場は父親の権力に大きく依存していました。伊周が亡くなれば、娘たちの未来は道長によって左右される可能性が高いことを、彼は知っていたのです。
伊周の長女は、美貌と品位を兼ね備えた女性でした。彼女は14歳という若さで道長の次男、藤原頼宗に嫁ぐことになります。頼宗は道長の息子であり、政治的に有利な結婚であったと言えるでしょう。この結婚によって、長女は二人の息子を産み、その子孫たちはさらなる栄光を手に入れることになります。
このように、伊周の長女は政治的に成功を収め、父親の遺言にあるような「没落」は避けられたのです。しかし、もし伊周が生き続けていたならば、彼女はもっと高い地位に昇ることができたかもしれません。それでも、彼女の結婚とその後の子孫の繁栄を考えれば、父親が望んだ未来に最も近い形でその運命を全うしたと言えるでしょう。
一方で、伊周の次女の運命は父親がもっとも恐れていた通りのものとなってしまいました。彼女は、道長の娘・彰子の女房として宮中に仕えることを余儀なくされました。伊周が亡くなった後、彼女は何度も道長や彰子から女房として仕えるよう求められ、そのプレッシャーに耐え切れず、最終的には従うこととなったのです。
彼女は「措置殿の御方(おんかた)」という屈辱的な名前で呼ばれていました。この「措置殿」とは、伊周が流罪に処された際に任命された役職からの皮肉を込めたものであり、彼女が仕えていた道長の家によって、その過去を常に思い出させられる存在として扱われていたのです。
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=5rDjAHZj30Q,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]