平安時代の華やかな貴族社会、その中心に生きたのが藤原道長の次女・藤原妍子(けんし)です。彼女の人生は、父・道長の策略と政治的な思惑のもとに大きく動かされ、18歳年上の居貞親王に嫁いだことで運命が一変します。果たして、彼女はどのような道を歩んだのでしょうか?
妍子は994年に誕生しました。同じ年に異母兄弟となる三男・彰子(あきこ)が生まれ、二人は複雑な家庭の中で成長します。彼女の父、藤原道長は平安時代を代表する権力者であり、自らの子供たちを皇族と結婚させることで一族の繁栄を目指しました。妍子もまた、幼い頃から皇族の妻になることを運命づけられていたのです。
妍子が11歳になると、父・道長は彼女を「内親王」に任命します。この役職は、次の天皇候補に嫁ぐ女性に与えられるものでした。
当時の妍子の婚約者となったのが、29歳の居貞親王です。彼は既に複数の子供を持つ父親で、妍子にとっては「年寄り」と映ったことでしょう。しかし、道長は次の天皇に自分の娘を正妻として送り込み、血統を確保するため、早々にこの縁談を進めました。
1010年、17歳になった妍子は、ついに35歳の居貞親王と結婚します。年齢差の大きな結婚は周囲の注目を集めましたが、妍子はその中でも派手な生活を楽しんでいたと伝えられています。しかし、翌年に居貞親王が三条天皇として即位したことで、妍子の立場は一変します。彼女は「中宮」として皇后に昇格しましたが、夫・三条天皇と父・道長の政治的対立に巻き込まれることになります。
三条天皇は自らの意思を強く押し出す独自の政治を展開し、道長と対立を深めていきます。その結果、妍子は父と夫の間で板挟みとなり、どちらの側につくべきか悩むことになります。
この葛藤は、まさに現代の「嫁姑問題」にも似たものでした。
妍子は、政治の混乱の中でも自らの生活を楽しんでいました。彼女が好んだのは「一種物」というパーティー形式の宴です。参加者がそれぞれ一種類の酒や肴を持ち寄り、共に楽しむこの宴は、一見質素な集まりのようですが、妍子が主催するものは極めて贅沢でした。参加者たちは妍子の高い基準に応えようと必死になり、その結果、貴族たちにとっては負担の大きなイベントとなっていました。
これを見かねた姉・彰子は、道長に対して「一種物の宴を中止するべき」と強く進言します。父と姉の間で妍子の豪奢な宴会は中止されることとなり、彼女の自由な生活も一時的に影を潜めました。
妍子は後に一人の女児を産みますが、男子を産むことはできませんでした。これにより、彼女は政治的な影響力を持つことなく、華やかな生活を送りながらも、影の薄い存在として暮らしました。彼女が生んだ唯一の娘・禎子内親王は、後に後朱雀天皇と婚姻しますが、これもまた道長の思惑の延長に過ぎませんでした。
妍子は1027年、33歳の若さで病に倒れ、その生涯を閉じました。彼女の死は道長にとって大きな打撃となり、その翌年、道長もまた後を追うように亡くなります。多くの娘たちが若くして亡くなったことは、彼にとって大きな心の傷となったことでしょう。
引用元:https://www.youtube.com/watch?v=9we67y2veRc&t=226s,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]