鎌倉殿の13人が果てた後も、混沌とした時代は終わりを迎えませんでした。主人公である北条義時が62歳で生涯を閉じ、彼が支配した幕府の行方はどうなるのか。権力闘争と裏切りが複雑に絡み合い、新たな鎌倉幕府の運命が描かれていきます。ここでは、義時の死後に待ち受けていた人物たちの波乱に満ちた後日談を追いながら、幕府滅亡までの歩みを見ていきます。
義時が死去した後、彼の後継者として名乗りを上げたのは、北条政村でした。しかし、政村の後継を巡る噂が絶えず、その一つが「東事件」と呼ばれるものでした。この事件では、義時の死因を巡る疑惑が囁かれ、無実の罪を着せられた者もいたとされています。関係者の多くが処罰されたこともあり、事件は未だに解明されぬ謎を抱えています。
その後、北条泰時が幕府の新たな指導者として力を持ち始め、幕府の安定を目指して「表情」という最高合議機関を設立しました。ここには有力御家人11人が選ばれ、これに泰時を含む新たな「鎌倉殿の13人」が再び誕生します。彼らは幕府の支えとして、それぞれの役割を果たしながら新しい政治体制を築いていきました。
幕府の長として活躍した三浦義村が亡くなった後、安泰期に見えた幕府に再び暗雲が立ち込めます。泰時の子である時氏が亡くなり、その息子・常時が失権となることで新たな内紛が起こりつつありました。そんな中、幕府内で台頭し始めた御家人たちの思惑と権力闘争が激化し、再び幕府を揺るがす波乱の展開が訪れます。
時が進むにつれ、武家政権の力を象徴する将軍の権威は次第に弱まり、将軍派と失権派の対立が表面化していきます。将軍の力を取り戻そうとする動きが進む一方で、北条家を中心とした失権派が幕府の主導権を握ることで対立はますます激化。結果、鎌倉の地で熾烈な内戦が勃発し、将軍の権威回復は不可能に近いものとなっていきます。
やがて、時氏が亡くなった後に浮上したのが、「宮騒動」とも呼ばれる名越家の陰謀でした。時折がこの陰謀を察知し、名越家の影響力を削ぐべく暗躍。結果、名越光則やその兄弟たちは出家や追放の処分を受けることになり、幕府内での権力争いに終止符が打たれたかに見えました。しかし、これが完全な安定をもたらすわけではなく、彼らの血筋は新たな混乱をもたらす火種となります。
安達氏と三浦氏の間で幕府内の支配権を巡る対立がさらに激化。
安達氏の挑発に怒った三浦氏はついに兵を挙げ、両家の衝突が避けられない事態に。この対立が「王治合戦」と呼ばれる市街戦に発展し、幕府内での権力闘争は鎌倉の街をも巻き込む激しい戦いへと突入していきます。
時折は苦渋の決断を下し、三浦氏を討伐するための計画を進めます。結果、三浦安村とその一族は戦いに敗れ、徹底抗戦の末に一族全員が自害して果てました。この戦いにより、北条家が幕府の実権を握る体制がますます強固になり、以後、特捜家の独裁色が強まっていきます。
こうして幕府内の安定を取り戻した北条家ですが、時が経つにつれて新たな外敵が迫ってきます。東アジアに勢力を拡大しつつあったモンゴル帝国からの国書が届き、これにより「蒙古襲来」という大きな国難が幕府を襲います。幕府の指導者である時胸が蒙古襲来に対処し、二度の襲来を撃退したものの、その代償として彼は短命で生涯を終えることになりました。
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