鎌倉幕府成立に重要な役割を果たした「十三人の合議制」。そのメンバーの一人である梶原景時(かじわらかげとき)は、源頼朝の命を救ったことから「鎌倉殿の忠臣」として名高い人物です。しかし、その忠義ゆえに他の御家人から強く反感を買い、最終的には悲劇的な最期を遂げることになりました。
1180年、頼朝が挙兵し、石橋山の戦いで平家と戦うものの、味方の三浦一族が合流できず、頼朝軍はわずか300人で平家軍3000人に立ち向かうことになります。頼朝軍は大敗を喫し、頼朝は岩谷の洞窟に逃れ命の危機に晒されます。
景時は頼朝の潜伏先を知りながら、上司である大庭景親(おおばかげちか)には「頼朝はいない」と嘘の報告をし、頼朝の命を救います。頼朝が鎌倉幕府を開くきっかけとなったのは、この景時の嘘があったからにほかなりません。この恩義が評価され、景時は幕府の要職である侍所別当(さむらいどころべっとう)に任命されます。
景時は他の武将と異なり、和歌を詠み、書や計算も得意とする文武両道の人物でした。頼朝の元で数々の報告書や戦況の詳細を緻密に記録し、他の武士たちとは一線を画する存在でした。頼朝にとって景時は、単なる武勇に優れた武将ではなく、文化的な理解を共有できる稀有な相手だったのです。
一方で、景時は義経と激しく対立することになります。頼朝の弟であり、伝説的な武将と称えられる源義経(みなもとのよしつね)は、戦の天才でありながら、独断で行動することが多く、政治的な手腕には欠けていました。
景時は頼朝に忠誠を尽くし、その後も幕府の重職に就きますが、頼朝の死後、彼の忠義は他の御家人たちには理解されず、次第に孤立していきます。頼朝の死後、2代将軍・頼家の時代には幕府内での権力争いが激化し、御家人たちとの関係が悪化した景時は「頼家への忠誠心が強すぎる」としてついに失脚。十三人の合議制メンバーでありながら、御家人たちから嫌われ、60余名の署名が集まった嘆願書により追放を決定されてしまいます。
鎌倉を去った景時は、自領の伊豆に向かう途中、菊池友兼という御家人に襲われ、その場で自害に追い込まれます。
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