平安時代の文学の巨星、紫式部と清少納言。この二人の女流作家は、同じ宮廷に仕官しながら、それぞれ異なる道を歩みました。特に、彼女たちの関係には、対抗心や嫉妬が絡む禁断の競争が存在していたといわれています。NHK大河ドラマ「光る君へ」でも描かれるこの二人の物語には、深い真実が隠されています。
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは……」この有名な冒頭で始まる『枕草子』は、清少納言の作品であり、多くの人々に親しまれています。学校の教科書にも載っているため、その名を知らない人はいないでしょう。清少納言は966年に生まれ、1025年に亡くなりました。彼女の作品は、平安時代の風流や美意識を色濃く反映しています。
一方、紫式部は973年に生まれ、彼女の代表作『源氏物語』は日本文学史における金字塔となっています。二人はほぼ同時代に生き、同じ宮廷の女房として活動していました。
しかし、彼女たちの立場や作品への評価は、全く異なるものでした。
紫式部は、清少納言に対して批判的な視点を持っていました。彼女は日記の中で、清少納言の学識を嘲笑うような表現を用いています。「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍(はべ)りける人」と彼女は述べ、清少納言の知識不足を厳しく指摘しました。この言葉には、紫式部の強い対抗心がうかがえます。
紫式部は、自身の文学的才能を誇示しながら、清少納言の風流さや個性が結局は表面的なものであると考えていたようです。「彼女のように、人との違いばかりに奔りたがる人は、やがて見劣りする」とする紫式部の言葉には、清少納言への嫉妬が見え隠れしています。
清少納言が宮廷に仕官したのは993年から1000年であり、紫式部はその約5年後の1005年から出仕しました。
この時間の差は、彼女たちの関係に微妙な影響を及ぼしたことでしょう。清少納言はすでに有名な作家であり、彼女のサロンは一条天皇の寵愛を受けた定子皇后によって華やかに彩られていました。この「定子サロン」は、才色兼備の女性たちが集う社交の場として知られ、清少納言が中心となってさまざまな催しを仕切っていました。
その一方で、紫式部は当初、陰気で地味とされ、なかなか注目を浴びることができませんでした。しかし、彼女は努力を重ね、次第にその存在感を増していきました。特に、彰子中宮からの信頼を受け、次第に社交的な地位を確立していったことは、清少納言にとって脅威であったに違いありません。
清少納言の晩年については、鎌倉初期の説話集『古事談』に記録されています。彼女は次第に零落していく様子が描かれ、その華やかさが薄れていったことが伺えます。一方で、紫式部はその後も文学の道を歩み続け、『源氏物語』で確固たる地位を築くことになります。
この対比は、二人の運命の分かれ目として興味深いものです。
紫式部が清少納言の「学識の無さ」を批判していた理由には、彼女自身の漢籍に関する知識があったからだと考えられます。丸山裕美子氏の著書では、紫式部が「一といふ文字だに書きわたしはべらず」と述べることで、清少納言の漢籍知識の浅薄さに耐えられなかったと指摘しています。このことから、紫式部は無意識に清少納言と自分を比べていたのかもしれません。
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