昭和時代の世田谷、今とはまったく違う姿がそこにはありました。かつて、現在の駒沢オリンピック公園の一帯には広大なゴルフ場が存在していたことをご存知でしょうか?今では想像もつかないかもしれませんが、このゴルフ場こそ、かつて計画された1940年の東京オリンピックのメイン会場となる予定だったのです。
駒沢オリンピック公園として現在も親しまれているこの場所、実はかつて「駒沢ゴルフ場」として昭和初期に存在していました。目黒蒲田電鉄(現在の東急電鉄)が運営しており、当時は裕福な人々の社交場として栄えた場所でした。このゴルフ場は東京オリンピックのための会場として選ばれ、メインスタジアムが建設される予定でした。
戦争が進む中、駒沢の土地は防空緑地として東京都に買収され、ゴルフ場は閉鎖されました。その後、1964年の東京オリンピックの際に、バレーボールやレスリングの会場として駒沢オリンピック公園が再整備され、今の姿に生まれ変わったのです。駒沢の地には、昭和の激動の歴史が刻まれていることを感じずにはいられません。
昭和初期、世田谷にはまだ鉄道網が十分に整備されていませんでした。しかし、地域の発展を願い、私財を無償提供して鉄道を通すために尽力した一人の男がいました。彼の名前は大庭賢道。長らく世田谷村の代官を務め、地域の人々から信頼されていた人物です。
大庭は、当時の多摩川電気鉄道(現在の東急電鉄)と交渉し、自らの土地を無償で提供することで、世田谷を通る鉄道路線の建設に協力しました。
昭和の世田谷は、今のように整備された住宅街とは異なり、まだまだ農村の面影が残る地域でした。しかし、鉄道の開通によって急速に住宅地化が進み、商業地としても発展していきます。
昭和2年、小田急線が開通するとともに、下北沢駅周辺は急速に発展を遂げました。帝都電鉄(現在の京王井の頭線)の開通も重なり、下北沢はサブカルチャーや音楽の街としての独自の文化を築いていきます。ライブハウスや劇場が立ち並び、昭和後期には多くのミュージシャンやアーティストが集う街となりました。カルメン・マキやBUMP OF CHICKENなど、数え切れないほどのミュージシャンがここから輩出され、今でも下北沢は若者文化の中心地として活気に満ちています。
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