12月3日の寒さが本格化してきたある日、昭和39年(1964年)、僕たち家族が暮らす小さな路地で、忘れられない出来事があった。この日、近所の人々が自然と集まり、焚き火を囲んだ。冬の冷たい風が吹く中、家の前の狭い路地で、隣の工場のおじさんが焚き火を始めたのだ。
その光景は、当時の日本の生活の一端を象徴しているようだった。今では想像もつかないかもしれないが、当時の路地はみんなの共有スペースのようなものだった。そこは「道」でもあり、また「庭」のような場所でもあった。子供たちは自由に遊び、大人たちは自然と集まって何かしら作業をしたり、話し込んだりしていた。この日の焚き火も、そんな日常の一部だった。
工場のおじさんが焚き火を始めると、すぐに僕たち兄弟や、隣に住むタバコ屋の子供たちも外に出てきた。寒さを忘れて、焚き火の周りに集まって温まった。顔が火の熱でほてると、みんな笑顔が溢れ、何とも言えない温かい空気が流れていた。
写真に写る僕と兄ちゃん、そしてタバコ屋の子供たちの表情は、その時の楽しさをそのまま伝えている。僕はまだ幼かったが、その場の和やかさや、冬の特有の空気感は今でも鮮明に覚えている。近所の子供たちは、みんな仲が良かった。たとえ親が異なる仕事をしていても、子供たちにとってはそんなことは関係なかった。学校が終わるとみんなで一緒に遊び、何もなくてもただ外で過ごすだけで楽しかったのだ。
この時、焚き火の炎がどんどん燃え上がる中、近所の工場で働くおばさんも外に出てきて、笑顔で子供たちに声をかけてくれた。その場には、家族だけでなく、近所の人々の絆もあった。工場のおじさんは忙しい中、焚き火を作ってくれただけでなく、子供たちが安全に火に近づけるよう見守ってくれた。今では考えられないが、当時はこんな温かい交流が普通だった。
さらに、この日は僕たちの父ちゃんが、早朝勤務から帰宅した直後だった。疲れているはずなのに、僕たちが焚き火で楽しそうにしている様子を見て、カメラを取り出し、写真を撮ってくれた。昭和の時代、写真を撮るというのは、今ほど頻繁ではなく特別な出来事だった。だからこそ、この1枚の写真は家族の大切な思い出として、今でも大切にされているのだ。
昭和の時代、カメラやフィルムは高価で、日常的に写真を撮るという習慣はほとんどなかった。それでも、この瞬間を切り取ってくれた父ちゃんの行動が、今の僕たちにとってはとてもありがたいことだったと感じる。父ちゃんもまた、この焚き火の温かさや、家族の幸せそうな笑顔を記録しておきたかったのだろう。
現代では、街なかで焚き火をする光景はほとんど見かけなくなった。防火規制や安全意識の向上により、公共の場での焚き火は禁止されていることが多い。しかし、当時はそんな厳しいルールはなく、近所の皆がそれぞれの役割を果たし、自然と安全に配慮しながら生活していた。
この時の焚き火は、ただの暖を取るためのものではなく、人々が自然と集まり、笑顔を交わし、絆を深める場でもあった。
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