NHKの人気朝ドラ「虎に翼」に登場するキャラクター、山田よね。彼女のモデルとなった人物は、実在の女性法律家、久米愛(くめ あい)です。その波乱に満ちた生涯は、多くの人に影響を与え、特に女性の権利向上に大きな貢献を果たしました。本記事では、彼女の経歴や家族、そしてその最期までを詳しくご紹介します。
久米愛は、1911年7月7日に大阪で生まれました。彼女の実家は裕福な家庭で、父親は大阪の電力会社の社長という立場にありました。そんな家庭環境で育った久米は、幼少期から学問に対して強い意欲を持ち、特に兄から大きな影響を受けて育ちました。兄はアメリカのハーバード大学で学び、そこで得た男女平等や自由主義の考えを久米に伝えました。
久米は大阪府の夕陽丘高等女学校を卒業後、津田塾大学(当時は津田英学塾)に進学し、英語を学びました。しかし、当時の日本では女性の英語教師の採用枠が限られており、久米は将来の職業選択に悩んでいました。
1933年、弁護士法の改正により、女性も弁護士を目指せる道が開かれました。この情報を知った久米は、明治大学の専門学部女子部に入学し、法律を学び始めます。その結果、1938年に高等文官試験の司法科に合格し、三淵吉子や中田正子と共に日本初の女性弁護士の一人となりました。
当時の久米の情熱は、彼女が恋人であった友孝(ともたか)に送った手紙からも伺えます。「試験を通らなければ自分の将来は開かれない」「女性が新しい道に進むことは、社会的な意味を持つ」といった強い決意が記されていました。彼女は、自分の成功が女性の地位向上に寄与すると信じていたのです。
同年、彼女は友孝と結婚。2人の出会いは、学生時代に行ったハイキングであり、共通の自由主義や個人主義に対する思想で息統合しました。その後、夫婦の間には3人の子供が生まれ、幸せな家庭を築きました。
1941年、久米は初めて法廷に立ち、弁護を行います。事件は、29歳の女性が90日齢の子供を殺害してしまったというものでした。この女性は、男性から捨てられ、精神的に追い詰められた末に犯行に及んだのです。久米は弁護で「親子の愛情は最高のもの」と母親の苦境を訴え、女性の立場から同情を求めました。その熱意あふれる弁論は、多くの人々の心を動かし、新聞にも取り上げられました。
しかし、1943年、夫の友孝が戦地に招集され、久米の生活は一変します。彼女は夫の看病と育児に追われ、岡山に疎開。慣れない土地で農作業を手伝いながら、子供たちを育て、過酷な日々を送ります。さらに終戦後、彼女は最愛の長男を病で失うという辛い経験もしました。
戦後、久米は東京に戻り、弁護士活動を再開します。しかし、ただの弁護士に留まることなく、彼女は1950年に日本女性法律家協会を設立し、初代会長を務めます。
彼女は、女性弁護士が活躍しやすい環境を作ることに尽力し、後輩たちの育成にも力を注ぎました。
さらに、アメリカへの視察団にも参加し、約4ヶ月間アメリカでの経験を積んだことが、彼女の活動に大きな影響を与えました。帰国後、国際会議や女性の社会進出に向けた啓蒙活動を積極的に行い、日本国内外での女性の地位向上に尽力しました。
久米愛は、1976年に65歳で亡くなりました。晩年も、彼女は精力的に活動を続け、女性の権利向上に貢献し続けました。彼女の功績は、今でも多くの女性弁護士や活動家に影響を与えています。
朝ドラ「虎に翼」では、女優の土井しおりさんが演じる山田よねが、久米愛をモデルにしたキャラクターとして登場しています。よねは、強い信念を持ち、女性の社会進出に挑む姿が描かれており、久米愛の実際の人物像とも重なります。よねがスラックスを履き、颯爽と歩く姿は、まさに久米の自由主義を体現しているかのようです。