朝ドラ「虎に翼」の主人公、伊虎子を演じる伊藤さま役のモデルは、日本初の女性弁護士の一人で、戦前から戦後にかけて女性の社会進出と権利向上に尽力した三淵よし子さんです。彼女の波乱に満ちた人生は、まさにドラマそのものと言えるでしょう。今回の記事では、そんな彼女の人生を中心に、その時代背景と共に詳しく見ていきます。
三淵よし子さんは194年、シンガポールで誕生しました。父親は台湾銀行に勤め、民主的で男女平等の価値観を持つ先進的な人物でした。彼女は幼い頃から、「普通の女性にはならないで、男性と同じように政治や経済を理解できるようになりなさい」と父から教えられて育ちました。これが彼女の人生を大きく左右する指針となり、弁護士という道を目指すことになったのです。
1920年、よし子さんは東京女子高等市販学校に進学。ここで彼女は法律を学ぶ決意を固めました。
当時、女性が法学を学ぶことは極めて珍しく、母親でさえ反対して涙を流したほど。しかし、父親の支えを受け、1932年に明治大学専門部女子部に進学。ここで女性にも弁護士試験の受験資格が与えられ、彼女はさらなる一歩を踏み出しました。
1938年、よし子さんは高等試験司法科に合格し、日本初の女性弁護士の一人として新聞にも取り上げられました。彼女は女性が法律を学ぶことがいかに大変であったかを語りながら、成績では男子学生を凌ぐほどの実力を示しました。当時の社会では、女性が弁護士として働くことは非常に困難でしたが、よし子さんは「不幸な方々の力になりたい」という強い信念で道を切り開いていきます。
しかし、第二次世界大戦が激化し、弁護士としての活動は制限されました。戦後、彼女は母校の女子部で法学教授として後進の指導にあたり、女性法曹界の礎を築きました。
彼女の授業は学生たちにとって憧れの存在であり、明るく人間性豊かな彼女の講義に多くの学生が魅了されました。
よし子さんの私生活にも戦争の影響は深刻でした。1941年に和田義男さんと結婚し、1943年に長男を出産しますが、夫は1944年に戦地に送られ、翌年には病気で亡くなってしまいました。戦後の混乱の中で、よし子さんは幼い息子を抱えながら福島に疎開し、厳しい生活を送ります。
その後、1946年に夫を亡くした彼女は、経済的な自立を模索し、裁判官として働く道を選びました。女性裁判官としての道は非常に険しかったものの、彼女は家庭裁判所の設立に尽力し、1952年には名古屋地方裁判所で初の女性判事として就任します。ここから彼女の裁判官としてのキャリアが本格化しました。
裁判官として、よし子さんは少年法廷で多くの非行少年と向き合いました。
彼女は一人一人に対して真摯に向き合い、彼らが立ち直れるよう涙ながらに語りかけることもありました。また、家庭問題にも深く関わり、家族の修復に尽力するなど、温かい心を持って人々に寄り添いました。
よし子さんの努力は少年法改正にも影響を与え、少年法の適用年齢を引き下げようとする動きに対して強く反対しました。彼女は、非行少年を犯罪者としてではなく、将来を担う人材として更生させることが大切だと信じていたのです。
1972年、よし子さんは新潟家庭裁判所で女性として初めて裁判長に就任し、その後も女性法曹界のリーダーとして活躍を続けました。彼女は1980年に弁護士として再び活動を開始し、労働省男女平等問題専門家会議の座長なども務めました。彼女は常に「女性が実績を上げて社会に貢献することが大切だ」と語り、現代の女性にも多大な影響を与えました。
1984年、69歳で亡くなったよし子さんの葬儀には2000人もの人々が訪れ、別れを惜しんだそうです。
彼女が裁判官として、そして女性法曹の先駆者として歩んだ道は、後世の女性たちにとって希望と勇気を与えるものでした。