平安時代の宮廷で繰り広げられた権力闘争。その中心に立っていたのが、三条天皇と藤原道長でした。彼らの戦いは後継者問題を巡って激化し、道長の思惑と天皇の意地が複雑に絡み合い、朝廷は激動の時代を迎えます。「光る君へ」では、この歴史的なドラマが鮮明に描かれています。
三条天皇(在位:1016年 - 1017年)は、一条天皇の後を継いで即位しましたが、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。彼の即位前、道長は自身の権力を強化すべく、孫である敦良親王(後の後一条天皇)を次期天皇に据える計画を練っていました。しかし、三条天皇はそれに屈することなく、長年連れ添った妍子を皇后にし、彼女との間に生まれた敦明親王を次期皇位継承者とする意向を示しました。
中宮妍子が妊娠した時、宮廷では男児の誕生が強く望まれていました。もしも男児が生まれれば、一条天皇時代のように、道長との関係も修復可能であったでしょう。しかし、妍子が産んだのは女児、貞子内親王でした。この結果に、道長は失望し、妍子も深く傷つくことになります。妍子が皇子を産まなかったことが、後の天皇退位の引き金となるのです。
三条天皇と道長の間で繰り広げられた後継者争いは、もはや宮廷全体を巻き込んだ壮絶なバトルへと発展しました。道長はあらゆる手段を使って敦良親王を次期天皇にしようと画策しますが、三条天皇も自らの子である敦明親王を皇太子にすることを決して諦めませんでした。この一連の争いは、単なる家族間の問題を超え、朝廷全体を揺るがす大事件へと発展していきます。
三条天皇が在位中に体調を崩し、片目がほとんど見えなくなったことで、公務に支障をきたすようになります。その上、宮廷内で火災が発生し、多くの重要な建物が焼失してしまいます。道長はこれを機に、三条天皇の体調不良と宮廷の混乱を口実に退位を迫りました。
三条天皇は退位の決断を強要される状況下で、あの有名な和歌を詠んだとされています。
「心にもあらで浮世に長らへば 恋しかるべき夜半の月かな」
これは、道長との熾烈な争いに敗れ、ついに皇位を譲ることを余儀なくされた天皇の無念の心情を詠み上げたものであり、その悲痛な想いが伝わってきます。彼の心中には、この世に未練を残しながらも、月光のように清らかな美しい何かを追い求め続けていたのかもしれません。
天皇の退位問題がますます緊迫する中、三条天皇の第一皇子、敦明親王が起こした暴力事件が決定的な要因となります。親王が宮中での権力闘争に耐えきれず、周囲に暴力を振るう事件が相次ぎました。
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引用元:https://www.youtube.com/watch?v=gBVOgd3MeCI,記事の削除・修正依頼などのご相談は、下記のメールアドレスまでお気軽にお問い合わせください。[email protected]