清少納言の晩年について語る際に避けて通れないのが、紫式部との関係です。紫式部は自身の日記で清少納言を厳しく批評しており、彼女の漢文に関する能力を軽視するような書き方をしています。曰く、「清少納言は偉そうに漢文を書いているが、よく読めば誤りだらけで、大したことはない」と。さらに、紫式部は彼女の将来に対しても「この先、いいことなどあるはずがない」と断言しています。これが原因で、清少納言が晩年に落ちぶれたという噂が広まったのかもしれません。
しかし、清少納言は藤原氏やその他の名だたる貴族と和歌や詩のやり取りをしていた才能豊かな女性でした。彼女の落ちぶれたという話は、一部の人々の想像や噂が膨らんだ結果かもしれません。
清少納言の生い立ちは、実はあまり詳しく分かっていません。通説では966年頃に生まれたとされていますが、確かなことは不明です。
彼女の父親は清原元輔という下級貴族で、漢詩や和歌の知識を持つ教養人でした。
清少納言は16歳の頃に橘則光と結婚し、一男・橘則長をもうけましたが、後に離婚。『枕草子』には、則光が和歌に対して無関心であり、風流を避ける態度を取ったと記されています。
清少納言は再婚もしており、二度目の夫は藤原宗行とされています。彼は清少納言よりも20歳以上年上であったと考えられています。再婚後、清少納言には娘も生まれ、駒の女房という名前で知られています。
清少納言の娘、駒の女房についても多くの謎が残されています。駒の女房は、藤原道長の長女・彰子に仕えたことが知られています。貞子が亡くなった後、清少納言は一度宮廷を去り、夫・藤原宗行の不認地である摂津に移り住んだとも言われています。しかし、この時期に駒の女房がどのような立場であったのかは議論の余地があります。
一説によると、娘は7歳の頃から彰子の宮廷に仕え、「目のわ(若い女房)」として活躍していたとも言われています。母親と娘が異なる宮廷に仕えるという状況が、清少納言の心境にどのような影響を与えたのか、想像をかき立てられます。
清少納言の晩年には、数多くの伝説が語り継がれています。例えば、彼女が出家し、兄・清原致宗を頼りに山間で暮らしたという話があります。しかし、兄の屋敷が襲撃される事件が起こり、清少納言も命を落としかけました。伝えられるところでは、彼女は自らの着物の裾をまくって女性であることを示し、命拾いをしたと言われています。
また、鎌倉時代初期の資料には、晩年の清少納言が粗末な家に住み、通りかかった若者に「落ちぶれたな」と嘲笑された際、激怒して「名馬は骨になってもその価値は失われない」と言い返した逸話が残されています。このエピソードからも、彼女が自らの誇りを守り続けた姿が垣間見えます。
清少納言の晩年は、夫・藤原宗行との別れが大きな転機となったようです。夫が亡くなった後、彼女は再び宮廷に戻ることもなく、静かな生活を送りました。枕草子には「一人で静かに暮らすことの魅力」が綴られており、彼女がそのような静寂の中で暮らしていたのではないかと推測されています。
とはいえ、彼女は完全に孤独ではなかったようです。赤染衛門や和泉式部といった友人との交流が晩年まで続いていたことが記録されています。
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