梓みちよの孤独死の真相と最期の遺言に感動 「メランコリー」の歌手と元プロ野球選手の20年以上の不倫や明石家さんまとの確執にまさかの事実が明らかに!
2024/02/21

幼少期から宝塚へ

梓みちよさんは、幼少期からバレー教室に通っていました。その教室の先生が元タカラジェンヌだったため、バレーにのめり込むようになりました。中学の時に初めて宝塚を見て感激し、月組トップスターに一目惚れします。男役になりたいと思った梓みちよさんは、母親に内緒で宝塚学校を受験し、一発合格しました。高校を中退し、16歳の時に宝塚学校へ入学した梓みちよさんは、在学中に渡辺プロダクションの社長に出会い、オーディションに合格しました。そして、歌デビューの話が舞い込んだことから1年半で学校を中退し、上京しました。

歌デビューと人気の絶頂期

約1年間のレッスンを経て、1962年に梓みちよさんは歌デビューを果たしました。翌1963年には、リリースした「A6すけさん」が大ヒットし、日本レコード大賞で対象を受賞し、紅白歌合戦にも初出場を果たしました。デビュー間もないにも関わらず、梓みちよさんは人気歌としての地位を確立しました。1969年まで紅白歌合戦に7年連続出場を果たすものの、その後人気が一時低迷し、4年間は紅白に落選しています。

再ブレイクを果たし、ロングヒット曲を送り出す

しかし、1974年にリリースした「2人でお酒を」が大ヒットすると、日本レコード大賞で大衆賞を受賞し、紅白歌合戦にも5年ぶりに出場し、見事再ブレイクを果たしました。また、1976年に発表した「メランコリー」もロングヒットを記録し、以降も「よろしかったらなど」のヒット曲を世に送り出しました。彼女は1960年代から70年代にかけてヒット曲を飛ばし、多くの人々に愛されました。

突然の訃報とその後

2020年1月29日、梓みちよさんは自宅で倒れているのがマネージャーに発見され、その場で死亡が確認されました。死因は急性心不全でした。梓みちよさんは独身のまま生涯を終えました。

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