片倉小十郎景綱──伊達政宗の側近として知られ、数々の戦国コンテンツでも人気の高い武将です。伊達家を影から支え続け、軍師としても信頼された彼の生涯を振り返ると、伊達政宗に負けないほどの激しいエピソードがいくつも登場します。そんな片倉景綱の人生を辿りながら、彼がいかにして伊達家の右腕となったのかを見ていきましょう。
片倉景綱は、山形県置賜郡の米沢八幡宮の子として生まれました。幼少期は家族を相次いで失い、親戚の家に養子として引き取られるも実子が生まれて戻されるなど、波乱に満ちた少年時代を送りました。しかし、彼の傍には約20歳年上の姉・喜多がいました。喜多は母親代わりとして景綱を鍛え、武道や兵書にも通じた彼女の教えが、景綱の人格形成に大きく影響したといわれています。
10歳のとき、喜多が伊達政宗の乳母となり、弟も伊達輝宗の近侍として取り立てられました。景綱の才能に気付いた輝宗は、彼を政宗の側近として推薦します。この時の景綱はまだ若干19歳。以後、政宗9歳から始まるその忠義の生涯は、戦国時代の激動を共に乗り越えるものとなります。
政宗と片倉景綱は、主従関係以上の兄弟のような関係を築きました。政宗が脇腹に腫瘍を患ったとき、景綱は政宗の頼みで患部を焼く手術を行うことになります。しかし、政宗への痛みがどれほどかを確認するため、景綱は自分の太腿に鉄の棒を押し当て「これくらいなら死なない」と判断してから政宗の治療に取り掛かりました。彼は、主君の痛みを自分で確かめるほどの忠義心を持っていたのです。
また、ある時には景綱に息子が生まれたものの、「主君に子がないのに自分が先に授かるわけにはいかない」と、その子を殺そうとした話が伝えられています。これを聞いた政宗は、景綱に手紙を送り、「お前の心は分かるが、どうか私のためにその子を救ってくれ」と頼みました。
関ヶ原の戦いにおいて、伊達政宗と片倉景綱は東北にて上杉家と対峙しました。上杉家が山形の最上家を攻めた際、伊達家は援軍として参戦。母方が最上家の政宗にとっても重要な戦でした。しかし、景綱はこの時「上杉家と最上家を戦わせ、両家が消耗したところを伊達家が手に入れれば良い」と提案します。主君の母の家を犠牲にする案を出すその冷徹な姿勢は、景綱の実利主義と容赦のなさを象徴しています。
景綱は、徳川家康に認められ、白石城を任されました。彼は病気に悩まされるようになり、政宗は「甲冑を新調するから元気になれ」と励ましたといわれています。最期のときまで政宗に仕え、大坂夏の陣には息子の重長を派遣し、その後も伊達家の未来を見据えて指導を続けました。
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